〔2021/04/12〕第1回 教育原論オリエンテーション
〔2021/04/12〕第1回 教育原論オリエンテーション
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◯毎回のテーマ(予定)
〔2021/04/12〕第1回 教育原論オリエンテーション 「子どもを理解するために」
〔2021/04/19〕第2回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて① 「猿―未開人―現代の子ども」
〔2021/04/26〕第3回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて② 「現実の人間関係と個人内の機能」
〔2021/05/10〕第4回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて③ 「個人内の心理機能システム」
〔2021/05/17〕第5回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて④ 「高次心理機能の発達と崩壊」
〔2021/05/24〕第6回 自我(自己意識)論① 「自他の同時的形成と3項関係」
〔2021/05/31〕第7回 自我(自己意識)論② 「3歳の危機」
〔2021/06/07〕第8回 自我(自己意識)論③ 「7歳の危機と13歳の危機」
〔2021/06/14〕第9回 自我(自己意識)論④ 「自己意識の生成と崩壊」
〔2021/06/21〕第10回 社会的実践と個人―対話について① 「フェイス・トゥ・フェイスの意味」
〔2021/06/28〕第11回 社会的実践と個人―対話について② 「対話の原理」
〔2021/07/05〕第12回 社会的実践と個人―対話について③ 「内的対話」
〔2021/07/12〕第13回 社会的実践と個人―対話について④ 「子どもと対話」
〔2021/07/19〕第14回 社会的実践と個人―対話について⑤ 「治療と対話」
〔2021/07/26〕第15回 社会的実践と個人―対話について⑥ 「危機的事態と対話」
《講義メモ》
「子どもを理解するために」
この科目を受講する人の多くは、社会福祉学を学びつつ、その一環として、保育士養成課程の科目として「教育原論」に臨んでいる。まずは、社会福祉学と教育学の共通性について考えておきたい。
I 社会福祉学と教育学のそれぞれの学問的母胎と実践的性格
社会福祉学は社会学から枝分かれした。いわば応用社会学の1分野であった。他方、教育学は哲学から生まれた。これも、応用哲学(こういう言い方があるかどうか知らないが)なのである。ここから、2つの学問の根本的な共通性が生まれてくる。
根本的な共通性として挙げることができるのは、社会福祉学も教育学も実践的な学問だ、ということである。社会学や哲学から枝分かれしたのは、実践の必要からであろう。一方では資本主義が生み出す「貧困」を克服しようとする「社会事業」が登場し、他方では同じく資本主義が学校教育制度を必要とするようになった。これに起因して社会福祉学と教育学とが生まれたのである。
ところで、実践はたえず新しい問題を学問に提起する。それに応えるべく、学問は隣接する諸学問から学問的成果を吸収していく。こうして社会福祉学も教育学も、社会学や哲学だけではなく、問題・領域に応じて、諸学問を引きつけていく。たとえば、教育学においては、教育◯◯学という形で隣接的に拡大されてきた。教育哲学、教育人間学、教育心理学、教育社会学、教育行政学、教育財政学などである。社会福祉学においては、◯◯論という形で種々の領域を確立してきた。たとえば、児童福祉論、障害者福祉論、高齢者福祉論などである。また、社会福祉学部には、その元々の出身学問が社会福祉学のみならず、社会学、社会政策学、経済学、法学、医学などに及んでいることも、実践による問題・領域の拡大を示してる。
II 社会福祉学が研究する領域と教育学が研究する領域
2つの学問が研究する領域は断然、社会福祉学の方が広い。たとえば、社会福祉実践が対象とする人間は、乳幼児から高齢者までの人間、つまり、誕生の直後〔たとえば「赤ちゃんポスト」の問題〕から死を迎えるまでの人間である。
社会福祉学の諸領域のなかで教育学との接点が濃いのは、児童福祉論(児童領域)である。もっともストレートなつながりとしては、スクール・ソーシャルワークという活動・制度があるが、接点はそれだけではない。たとえば、児童福祉施設に入所し生活する子どもたちは、そこで生活しつつ、幼稚園や学校に通う。子どもに生存権を保障するとともに、教育を受ける権利を保障することが、保護者や国・地方自治体に求められるからである。
これらについて、日本国憲法の条文を示しておこう――「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」「第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。 2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」。
この2つの条項の関連について、教育権(学習権、26条)は生存権(25条)の文化的側面である、とする学説もある。
全体として見れば、児童福祉論は子どもの生活に深くかかわり、教育学は子どもの教育に深くかかわっている。この生活と教育の関連(つながり方)は、生活のなかで子どもが学ぶものを抜きにして教育は成り立たない(子どもが小さければ小さいほど、そのことは顕著である)、という奥深さに満ちている。あることばを学ぶとき、そのことばが指し示す事実を生活の中で知っている必要がある、というような場合である。
したがって、比喩的にいえば、児童福祉論と教育学は一つのコインの裏と表のように、つながっている。それを深く理解するためには、子どもの発達を研究する必要があるが、さらには人間そのものの発達を把握しなければならない。子どもの発達の諸事実は、人間の全体としての発達のなかに(あらゆる年齢期の発達、精神的疾病による発達の変形・崩壊、障害のある人の発達、高齢者における発達の後退などのなかに)位置づけてこそ、より深く理解できるからである。
III 社会福祉学・教育学に共通するものとしての人間の研究(人間理解の基礎となるものの研究)
社会福祉実践も教育実践も、相手にしているのは以上のような意味での人間である。そのことを深めるために、次の3つの問いを投げかけたい。
保育士になりたいという人は、乳幼児のことだけを学習し研究していればいいのか?
障害者の問題を考えようとする人は、障害だけを学習し研究していればいいのか?
高齢者の問題を考えようとする人は、高齢にともなう問題だけを学習し研究していればいいのか?
これらの問いのすべてに「いいえ」と答えなければなるまい。それは、たんに、幅広く学習し研究することが大切だ、という理由からではない。これらの問いは、様々な面でつながっている、関連しあっている、というのが「いいえ」の真の理由である。ところで、乳幼児、少年・少女、障害のある人、高齢者はどのような点でつながっているのだろうか?
【乳幼児と思春期の子ども】
たとえば、乳幼児と中学生は、自我の問題でつながっている。3歳ころに自我が芽生える(子どもの自我が姿をあらわすが、子どもはまだ自分に自我があることを知らない、という状態)と言われるが、中学生の時期(いわゆる思春期)になると、自我を意識するようになり、自我が再編される。そうした自我の再編(自己意識の生成)を理解してこそ、幼児後期の自我の芽生えを真に理解することができる。
たとえば、3歳児における大人への反抗は「機械的な反抗」である。しばしばこの時期の子どもは、本当は自分がしたいことなのに、大人が「それをやったら」と言ったので、しない、というような反応をすることがある。自分に自我があることを知らないのに、生まれたばかりの自我をとにかく大人から護っているかのようである。
他方、思春期(少年期)における「人間の第2の誕生」(ルソー)とも言われる中学生の自我はすでに「自己意識」が生成している。つまり、自分を意識し、自分の考え方や感じ方を他者から護ろうとしているかのようである。いわば、心のなかで他者の考えと闘って、自分の考えを護ろうとするのである。そして、ときどき両親に対して、「オニババァ」「クソオヤジ」と爆発する。
このように3歳児の反抗と中学生の反抗は同じものではない。それぞれを比べてみて、それぞれの特質が理解できるのである。
【自閉症のある子どもとない子ども】
また、たとえば、発達障害のある子どもとない子どもについて、自閉スペクトラム症の子どものことばから考えさせられることがある。自閉症の当事者である東田直樹くんが中学生のときに書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール出版部、2010年)には、会話をしない理由が、次のように書かれている。「僕は、今でも、人と会話ができません。声を出して本を読んだり、歌ったりはできるのですが、人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです」(p.2)とか「僕は、話そうとすると頭が真っ白になってしまい、言葉が出て来ない」(p.20)と述べられている。しかし、紙に書かれた文字盤(キーボード)で指を動かすことによって、かろうじて、ことばをつなぎとめている、というのである。
これはこの人だけの特徴か、ある範囲の自閉スペクトラム症の人たちに共通するのか、すべての自閉スペクトラム症の人たちに共通するのか? この問いについては確定的なことは言えない。また、特に障害のない場合、どうして子ども・人間は自由におしゃべりできるのか?。 にもかかわらず、どうして高齢になるとことばが出にくくなるのか?こうした問いが次々に浮かび上がってくるが、いまはまだ確たることは言えない。だが、東田くんの言うことは、深く考えるのに値する。
ついでに言えば、松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』(福村出版、2017年)が示しているように、自閉スペクトラム症の子どもは方言で話すよりは「共通語」(いわゆる標準語)で話す傾向にある(知的障害のある子どもは方言で話す)、という事実は、何を意味しているのか? これも深く考察すべき事実である。
【高齢者の独り言とは】
さらに、たとえば、幼年期(3〜7歳)の独り言と高齢者の独り言をどのように捉えるべきか。幼年期の独り言は減少していくが、自己と対話する・聞こえない・思考(広義)のためのことばである内言へと成長するからである(聞こえないので減少と捉えられる)。高齢者に独り言が多くなるのは、かつて内言が行なっていた機能が独り言によって担われるようになった(内言が弱まるにつれて)のかも知れない。もしそうなら、同じ独り言でも、一方はことばの発達のなかにあり、他方は逆発達のなかにある。
※このような事例を通して言いたいことは、あらゆる年齢の子ども、障害のある子どもとない子ども、子どもと大人・高齢者のすべてが何らかの点でつながっており、その「つながり」を把握することができれば、どの時期の子ども・人間についても、深く理解することになるであろう〔発達と逆発達、発達の低次の層と高次の層の複雑な関係など〕。
【「人間を全面的にとらえること」】
最後に、「人間を全面的にとらえること」、そこからこそ、教育の手段を発見することができる、と述べた、帝政ロシア時代の教育(学)者K・D・ウシンスキーのことばを掲げておこう。
「教育者は、その現実あるがままの人間を、あらゆる弱さと偉大さをもった人間を、あらゆる日常的な些細な必要とあらゆる偉大な精神的要求をもった人間を、知ろうと務めなければならない。 教育者は、家庭のなかの人間、社会のなかの人間、民族のなかの人間、人類のなかの人間、そして密やかに自己の良心をもった人間を、知っていなければならない。 さらに教育者は、あらゆる年齢の人間、あらゆる階級の人間、あらゆる状態のなかにいる人間、喜びと悲しみのなかにいる人間、尊大な人間と虐げられた人間、力の有り余った人間と病気の人間、限りなき希望のなかにいる人間と、人間的な慰めのことばももはや無力である臨終の床にいる人間とを知っていなければならない。」(『教育の対象としての人間―教育学的人間学試論』序文より、1867年)
学生時代に、この一文を読んだとき、私はきわめて興味深いこの文章を深く心に刻んだが、それでも、その理解の仕方は、一種の格言のようにとらえていて、表面的であった。しかし、上で述べたように、近年、種々の年齢期の子ども・人間、老年期の人間、障害のある人間、精神疾患のある人間は、人間発達の様々な側面を表すものとして、相互連関的に理解しうることを実感するなかで、ウシンスキーの上記のことばは人間発達の理解への示唆に富んでいる、と考えるようになった。この講義は、上記のことばのように、人間を全面的に捉えるための試みでもある。
【この講義における人間理解への視点】
この講義では、ここで詳しく述べることはしないが、「人間的自然」「人間の言語」「自我(自己意識)について」「社会的実践と個人―対話について」の4つを、人間理解への基本的視点としている。その4つは重なり合っているが、本年度の講義では、「自我(自己意識)」と「対話」に焦点づけて論じることにしたい。
《今回のお薦め本》
東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』エスコアール出版部、2010年
松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』福村出版、2017年
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