〔2021/07/05〕第12回 社会的実践と個人―対話について③ 「内的対話」

 〔2021/07/05〕第12回 社会的実践と個人―対話について③ 「内的対話」


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 なお内容的には、


①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、

②それについての従来の自分の考え、

③自分にとっての「新しさ」の理由、


 を含んでいるのが望ましい。


 また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。


《前回の授業コメントより》

*意見の共有ではなく、意味の共有

 ①今回の授業においての新たな発見はコミュニケーションには「共有する」や「共通なものにする」といった考え方があることだ。そこで次に何を共有するのかが重要になってくる。ここでは意見の共有ではなく意味の共有を行うことによって対話の創造性が発揮されるとされている。

 ②今までコミュニケーションとは自分を相手を繋げるための一つの手段と思っていて、お互いに意見を共有し、新しい考え方を見出すためのものだと考えていた。そのため対話とは「共有する」ことを目指すのが一番の目的だと感じていた。しかしそうすると一方が他方を批判し説得することが生じ結果的に両者の意見が合わさり、新たな概念が生まれることは無くなってしまうことき気が付いた。

 ③ 対話はあくまでも多様性を前提にしていて、同時に対話参加者の意味の共有が高まり、部分的に意見の共有が始まっていく。完全に同じ意見になることはないが、すこしずつ共有されるものが高められていくと言うことなのだ。これが対話のもたらすものであろう。 このことが私の新しさの理由だ。

*対話における内省の役割

 私が新たに発見した事実は、内省が対話の創造性を保障することである。自分の意見や想定を留保状態にする。また、話し合う時に、お互いに相手の類似や相違に気づく。自分の想定と意見を自分の中から引きずり出し、それを吊るして自分でよく見ることが、内省の働きであるという考え方である。内省は対話をするうえで、大切なことであると理解はしていたが、対話の創造性を保障するものであるとは、思わなかった。相手の意見や想定が鏡となっていることが、内省を助け、それによって類似や違いを分かりやすくしていることに新しく気づくことができた。

*質問

 対話する人数が多ければ多いほど、意見共有にかかる時間は長くなるということでしょうか。

 〔多様性に留意する限り「意見共有」は対話の課題とはなりません。「意見共有」は何らかの説得の要素が生まれてくるからです。「意見共有」ではなく「意味共有」というように課題を立ててみると、概して、対話参加者の人数が多くなると時間がかかるとは言えますが、強調したいのは、「対話とはどのようなものか」という対話の意義を皆がどれくらい共有しているかどうかによります。〕

 「意味の共有」に進めない理由は自身の意見に固執し、絶対化してしまうことであり、その絶対化を防ぐためには他者との対話の中で見解を比較しつつ相対化する意識を持つことである、という解釈でも大丈夫でしょうか。

 〔それで結構かと思います。〕

 日本人は対話の場において空気を読んだり、自己主張が苦手だと言われますがこれは対話を進める相手との権力差を感じることで相互のリスペクトが失われ対話が崩壊している状況と捉えてよいのでしょうか。

 〔その通りだと思います。忖度(そんたく)という言葉があります。これに対応するのは「上から目線」でしょう。そのいずれにおいても、相互のリスペクトが失われることになり、対話がなくなり、新しい考え方が産み出されなくなってしまうのです。〕


《講義メモ》


はじめに

 対話とくに対話の創造性の問題について考えようとするとき、ことばや表情・身ぶり・イントネーションの相互伝達だけに着目するなら、つまり、外的対話にだけ着目するなら、この問題は不十分にしか解けないであろう。対話者たちのあいだで議論が創造的になり新しい考えや意味に達するには、対話者たちの内面で生じていること、つまり、内的対話を考察しておくことが不可欠となるだろう。なぜなら、対話者たちがそれまで各々が持っていたのとは違う、新しい考えを抱くようになるには、外側から与えられたり、ましてや強制されたものではなく、各人の内側から構築されねばならないからである。

 前回、対話の原理を導き出した主要な人物―デヴィッド・ボームとミハイル・バフチンの所論のうち、個人の内面に焦点を当てているもの、あるいは、そのように推測されうるものを、今回は取り上げることにしよう。その際、ヤクビンスキー、ヴィゴツキー、ワロンによって補足することにしたい。


I ボームと内的対話


【自己自身の内部における対話】

 ボームは、ダイアローグの意味に関して、古代ギリシャ語からの由来を考察しているときに、自己自身との対話、内的対話にも言及している―「対話の精神が存在すれば、一人でも自分自身と対話できる〔一人でも自己自身の内部に対話の意義を持つことができる〕〔Even one person can have a sense of dialogue within himself, if the spirit of the dialogue is present.〕」(44頁、p.6)、と。ここで最も重要なのは「自己自身の内部に within himself」という点である。ただし、それには、「対話の精神 the spirit of the dialogue」があることが条件となる。

 具体的に考えてみると、内的対話は、他者との対話が中断(終了)した後で、一人きりのときに行われる内的活動であることもあれば、他者との対話の途中で行われる内的活動であることもありうる。ボームは、一人による内的対話が可能であると考えたが、対話の創造性のために内的対話が必要だとは明示していない。私自身は、そうした内的対話は可能であるとともに必要でもある、と考えている。むしろ、対話における創造性を考察する焦点はここにある、とさえ考えている。

【自己の衝動と想定をよく見ることの難しさ】

 しかし、自己自身との対話、内的対話はそれほど簡単なことではない。ボームが次のように述べていることが可能であるなら、問題はただちに解決するであろう。

 「私たちの衝動を持ち運ぶことや想定を、すべて一旦停止させて、それらすべてを見ることができるなら、私たちは皆が同じ意識の状態のなかにいるであろう。〔If we can all suspend carrying out our impulses, suspend our assumptions, and look at them all, then we are all in the same state of consciousness.〕」(90頁、p.33)

 私が思うには、「私たちの衝動」や「想定の「すべてを見ること」、言いかえれば、相手と自分との「衝動や想定」をよく見ることは簡単な事柄ではなく、そのために何が必要なのかを明らかにする必要がある。

【自己と他者とを自己の鏡とすること、等々】

 ボームの考えからすれば、「衝動や想定」を相互に見るためには、少なくとも、次のような条件が必要であろう。

 (i) ディスカッションやディベートのような勝ち負けではなく、ダイアローグでは「ともに考える」ものだと、参加者たちが相互に理解しあえること。ここから、参加者たちのオープンな精神、相互の信頼が生まれてくる。そのように感情が安定すると、知性が働き始める、つまり、コヒーレン卜〔coherent〕な働きが生まれるのである。(91頁)

 (ii) それはすでに、自己の想定を自己から離れて考察することに繋がっている。自己の想定が批判的に考察されると、自己そのものが批判されていると思っているうちは、対話は成り立たない。他者による検討であれ自己による検討であれ、自己の想定を検討する場合には、自己の想定と自己とを切り離すことである。(92〜93頁)

 (iii) これらを可能にするのは、根本的には人間の内省する力である。ボームは次のように述べている。「問題は、思考が自己受容的proprioceptiveでありうるのか、という点にある」(76頁、p.25)。ここで書かれている自己受容的proprioceptiveとは、もともとは生理学の用語で、「生体内部の刺激を知覚すること」を意味するが、ここでボームは、この語を、思考に関連して比喩的に用いている。具体的に言えば、「思考は自己の内部で働いている思考を知覚できるのかどうか」という意味になる。普段は考える傾向にあることに気づかないが、それに気づいて、自分の思考を追いかけることを内省と呼ぶのである。

 (iv) こうして、対話参加者は相互の「衝動や想定」がよく見える「鏡」となる。ボームはコミュニケーションの崩れをもたらすものは「基礎的には自己受容の欠如に由来する」のであり、「衝動や想定」の「静止点」は、「自己受容を可能にすることを助け、自己の思考の結果を見ることができるように鏡をつくりだす」、と言う。それは自己が自己自身の鏡になるとともに他者もまた鏡に、つまり相互に鏡となるのである(77頁、p.25)。

 少なくとも以上の4つの事柄が内省には必要であり、対話の途中とか終了後に、対話の話題が内省されて、創造的な考え方が浮かんでくるのである。


II 「第2の内なる声」(バフチン)と「第2の自我」(ワロン)


 対話の話題の内省を、他者と自己の関係、自己意識、外的対話と内的対話の関係のなかで考察しようとしたのは、ドストエフスキーの長編小説群を分析したバフチンであった。それは1929年(『ドストエフスキーの創作の問題』)という早い時期に行われ、1963年の改作(『ドストエフスキーの詩学の問題』)にも貫かれている。

 上述したような、ボームが対話参加者を相互の鏡と考えるのと同じことを、バフチンはドストエフスキーのなかにより深く見出している。以下に述べるように、この「鏡」に匹敵するものは、自己意識のなかで発せられる「第2の内なる声」の出自は他者の声のなかにある、という点にある。

【「第2の内なる声」と他者の声】

 以前に述べた対話参加者の同権性は、対話成立のための外的条件であったが、それと密接に結びついているのは、バフチンがドストエフスキーの作品の分析から取り出した対話の内的構造である。それには、作中人物の自己意識、内的対話と外的対話の関係、ことばの新しい意味、といったモメントが含まれている。

 前回に述べたように、バフチンはドストエフスキーのドラマトゥルギーを分析して対話構造を解明しようとしたのだが、そのうちで現実の対話の解明にも有効であるものを取り出すと、次の2つとなる。

 ①まず作中人物の自己意識は「対話化」されてとらえられていること、②しかも、その「自己意識」は分裂・二分化において捉えられ、作中人物の「第2の内なる声второй внутренний голос」(Бахтин,М.М., 1963 / 2002, с.283 // 1995, p.533)が問題を深める鍵となっている。

 そうした「第2の内なる声」に種々の関係を持って現れてくるのは他の作中人物の声、つまり他者の外的な声であり、第2の内なる声は、「現実の他者の声の代替物であり、特殊な代用品замена, специфический суррогат реального чужого голоса」(Бахтин,М.М., 1963/2002,с.283 // 1995,p.533)であった。

 ここで重要なことは、代替物、代用品といっても現実の人間においては第2の内なる声が他者の声とイコールなのではなく、この内なる声の出自は他者の声である場合が多いとはいえ、内なる声に改変されている過程がそこにはある、ということであろう。これが、現実において、深みのある対話が成立する基本的な要件の1つである。

 このような内的対話と外的対話との相互関係、自己意識の対話化の骨格は、バフチンの1929年の『ドストエフスキーの創作の問題』にすでに登場しており、これは、対話の構造論においても、自己意識論においても、バフチンがヴィゴツキーやワロンという心理学者たちよりも早く解明したという点で、きわめて先駆的なものであった。とくに着目すべきは、「第2の内的な声」を位置づける自己意識論およびその声と対話における外部の声との絡み合いという対話論であった。

【ワロンの「第2の自我」論】

 なお、バフチンの自己意識論・内的対話論に類似した自我論を提起した心理学者にワロンがいる。1946年、という時期の論文であるので、バフチンよりもかなり遅れての理論化であった。ここでは、以前の講義(第6回)で述べたこととややダブる点もあるが、ワロンが、3歳くらいの自己主張の時期から思春期・青年期における自他の明確な区別とそのもとでの自我形成〔いわば「第2の自我」の形成に至る発達〕について述べている点を、取り上げておこう(Wallon, H., 1946 / 1959, pp. 283〜 //1983, pp.64〜)。

 ①最初の意識状態 と自他の形成

 原初的な意識は、宇宙に発生する星雲に擬えることができる。外発的、内発的なさまざまの感覚運動的活動が、はっきりとした境界なしにばくぜんと拡散している。

 やがて核(=自我)、その衛星としての「下位自我le sous-moi」ができる。この下位自我は他者を出自としている〔自分の名前を呼ばれて振り向くという動作で応答するとき、自我の最初の核が認められるであろう〕。この自我と他者のあいだでの心的素材の配分は必ずしも一定ではない(個人によって、年齢によって)。精神生活上で何らかの選択を迫られたときの変動。自他の境界が消え去ることもある。〔脚註。ワロンは自我が誕生してから他者が現れてくるのか、他者が現れるから自我が誕生するのか、という発想はとらずに、「意識による・自我の生成と他者の生成とは、並行して行われる」(Wallon, H., 1956/1963, p.90 //1983, p.31)と考えた。〕

 ②反抗的な危機

 そのような自己と他者の「せめぎ合い」によって、子どものなかに「反抗的な危機」が生まれる。3歳の危機における反抗の特徴は「反抗のための反抗」であり、それまでは自分が好き勝手に行動できていたのに、ある権威、目上の人がこの独立性を奪い取ったと感じて、その権威と闘っている。〔参照。ヴィゴツキーの3歳の危機における「反抗」の捉え方:本当はやりたいことなのに、大人がそれをしてみたらといったので、それをしない〕。

 この「せめぎ合い」は子どもの内面で起こっているのだが、現実の外的平面における自己と他者の「せめぎ合い」だという解釈もある。だが、現実の人と人との関係は、子どものなかでの「他者の幻想」(他者像)に媒介されている。この幻想の強度は様々に変動し、人と人との関係を規定している。この幻想の強度の変動そのものには様々な要因があり、それには、(内的要因としては)「自律神経系統の緊張度」「精神運動の活発さ」なども含まれている。

 ③第2の自我〔第2の主体〕と社会的自己

 やがて、周囲の人々は私(主体)が自己を表現し、自己を実現していくきっかけ・動機となる存在となり、また私(主体)は周囲の人々に生命を与え自分の外に永続的に存在するものとしうる。これは、自我と、その不可分の補完者である他者との、明確な区別が打ち立てられたからである。この自他の区別は習慣的な区別を写し取ったものではなく、私(主体)のもっと深い内面で行われる「二項分類」の結果なのである。この場合の二項分類とは、その二項が対立するが故に相互に前提としているものであり、「自己との同一性」(いわゆる自己の主体性)を1つの項とすれば、他の項は同一性(主体性)を保持するために排除すべきものの縮約、言いかえれば内的な他者の縮約である。

 こうした他の項としての「内的な他者の縮約」は、文脈によって、社会的自己socius、主体(私)にたいする副主体l’alter (sujet)、自我l’Egoにたいする第2の自我l’Alter、内なる他者l’autre intimeと呼ばれている。これらはすべて、意識の初期に登場した自我le moiに対する下位自我le sous-moiが形を整えてきたものであり、社会的自己socius、主体(私)にたいする副主体、第2の自我、内なる他者は、他者を出自としながらも、自我〔自己、主体〕に従属したもの、あるいは、自我(自己、主体)の内部にあるもの、と解釈されているようである。


 以上を振り返ってみると、ワロンの言う、副主体・第2の自我・内なる他者は、バフチンの言う「第2の内なる声」に照応し、それらの性格づけは、他者との関係において——一方での「他者の縮約」、他方での「特殊な代用品」というように——相通じるものがある。ワロンが精神病理学的研究や子どもの発達研究にもとづいてこれらを述べたのは1946年、バフチンはすでに1929年に書いたのである。


III 対話と内言―ヴィゴツキーによる解明


 対話や自己意識の創造性、概してことばの持つ創造性を言葉の面から捉えると内言が関与していることを明瞭に示したのは、ヴィゴツキーであった。まさしく、内省のおおもとになることばは、内言である。

【ヤクビンスキーが明らかにしたこと:すばやい応答と途切れた応答】

 ヴィゴツキーは、対話をことばの面から捉えるときには、ヤクビンスキー(『対話のことばについて』1923年)を参照し、それを踏まえている。ヤクビンスキーは対話にともなう心理過程を明らかにするときも、言語学者らしく、ことばの事実から出発している。この場合は、応答のテンポである。

 (i) 「ことばによる直接的交わりにおける発話は、概して、間接的交わりにおけるよりも、単純な意志的行為の次元において推移することができるし、意識と注意とのコントロール外で推移することができる」(第3章24節)と考えられ、そこでは、応答のテンポのすばやさによって、ことばの「自動化」が産み出される。これが典型的には話しことばの応答である。

 (ii) しかし、「複雑な意志的行為」の次元では、「考え直し・諸動機の闘争・選択などを伴う」のであるから、応答は途中でとぎれたりし、そのテンポはゆっくりになる(第5章30節)。

 (iii) それに似ているのは書きことばである。ヤクビンスキーは次のように考えている。―「書かれたものへの検討、そして訂正への自然な傾向は、メモ書きとか請願への決議とかの単純な事例においてさえ、現れている。草稿の利用の根拠もここにある。『下書き』から『清書』への道は複雑な活動でもある。だが、実際の草稿がないもとでさえ、書きことばにおける考え直しのモメントはきわめて強力である。私たちはまったく頻繁に、まず『独り言』を言って、その後で書いている。ここに『思考上』の草稿がある」(第5章34章)。書きことばにおける「考え直し」のモメント、たとえば、「独り言」を言ってから書き直す。これが「思考上」の草稿である、と言う。これは、内省の所産である、と解釈することができるものであろう。

【書きことばと内言】

 こうして、ヤクビンスキーは、対話のことばの一部、とくに、創造性を産み出す対話のことばは、書きことばと同じような性格を持つ、と考えている。

 ヴィゴツキーはヤクビンスキーのこのような考えを踏まえて、さらに、この根底には、つまり、創造性を産み出す対話の根底には、内言があると考えている。それは、書きことばと内言との関連について次のように書いていることから結論づけられよう。——「書きことばは、複雑な活動の次元において、ことばの流れを促進する。ここでは、ことばの活動は複雑な活動として規定される。このことをもとにしているのは、草稿の利用である。『下書き』から『清書』への道は、複雑な活動の道である。ところで、実際の草稿がない場合でも、書きことばにおける考えの整理のモメントはきわめて強力である。私たちは、まったく頻繁に、まず自己のなかで語り、それから書いている。ここには、思考における草稿がある。そうした書きことばの思考における草稿は、私たちがこれまでに指摘しようとしたように、内言なのである。」(ヴィゴツキー『思考と言語』第7章、1934/1999,с.317//2019, pp.116 -117〕。

 こうして、対話がもたらす創造的な考えは内的対話や内省を通して可能になるが、それを支える言語は、書きことばの場合と同じように、内言なのである。

 ここから、私たちは、以下のような興味深い言語の事実を捉えることができる。つまり、「対話のことば」のなかに二重の言語的特徴を見出すことができるのである。1つは、「フェイス・トゥ・フェイス」という直接的交わりが、話しことばに特有な「表情・身ぶり・イントネーション」の統覚を呼び起こして、話の内容を理解しやすくする。いま1つは、書きことばが行うことに匹敵するような、「考え直し」を担う内言を大いに発動させて、ときには予期しなかったような創造的な考えを産み出すことである。これらの特色こそ、「対話のことば」が持つ強力さを見事に示すのである。


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