〔2021/04/19〕第2回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて① 「猿―未開人―現代の子ども」
〔2021/04/19〕第2回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて① 「猿―未開人―現代の子ども」
《お知らせ》
◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、
https://kyouikugenron2021.blogspot.com/
に掲載します。このブログを読むためには、タブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。
◯毎回、読了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。
bukkyo.bukkyo2017@gmail.com
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「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
なお内容的には、
①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、
②それについての従来の自分の考え、
③自分にとっての「新しさ」の理由、
を含んでいるのが望ましい。
また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。
《前回の授業コメントより》
*子ども、大人、高齢者、障害のある人のつながり(関連)
①今回の講義メモを読んで、私はⅢの部分での3つの問いに対して、幅広く学習し理解を深めるからだという理由であると考えていましたが、実際の事実としてはこれらの問いが様々な面でつながって関連し合っており、様々な年齢の子どもや障害のある子どもともっていない子ども、子どもと大人・高齢者の全てが何らかの点でつながっており、そのつながりを把握できればどの時期の子どもや人間を深く理解できるのである、というところに新しく気付かされました。
②私は保育士を目指していましたが保育者としての知識や幼児に関しての知識のみを理解するこど大切であると思っていて、前者で述べたとおり最初その3つの点がつながっているとはあまり深く考えたことはなく、理解する上ではそれぞれの分野の見方や考え方を専門的に知ることが大切であると考えていました。ゆえにその関連性やつながりなどに気づくことなくその1つを専門的に学習することが大切であるという考え方にしか視点をむけていない考え方をしていたんだと考えました。
③しかしこの講義メモを読んだ上で幼児という小さな人間に対して何かを教える立場である教育者を目指し学習していく上で、まずは様々な種類の人間の特徴や性質を知り、その中から何らかの関連性やつながりを発見したり知識を得て、様々な人間を「知る」事を大切にしていかなければならないと、私は考えさせられたと感じました。以上が自分にとって新しいと感じた理由です。
*自閉スペクトラム症と方言・標準語の問題
「自閉スペクトラム症の子供は方言で話すよりは"共通語"で話す傾向にある」という部分が私の中で新たに発見した事実です。従来の私の考え方は自閉症の人とあまり言葉を交わしたことがないため、話す言葉が共通語か方言かどちらなのだろうか、という事自体を考えたことがありませんでした。ただ自然に地方に住んでいる人はその地方の言葉を喋るもんだと、当たり前のように捉えていました。
理由については明確に述べられていませんでしたが、純粋に理由を知りたいと思いました。また、共通語で話す傾向があるとのことだったので、自閉症の人がみんなそうではない理由も知りたいなと強く感じました。
〔昨年度の教育原論の「第12回 人間と言語⑤ 自閉スペクトラム症とことば(方言と共通語)」で少々詳しく述べておきました。関心があれば、お読みください。 https://kyouikugenron2020.blogspot.com/ 〕
*質問より
・人間理解への限界はあるのですか?
〔ここで言われている「限界」が何を意味しているのかが分かりませんが、人間については①科学的な理解と②共感的理解とがあり、そのいずれもが重要です。人間理解は単純ではありませんが、私たちはその本質に無限に近づいていくことができる、と思われます。その意味では、絶えず限界があり、同時に、それを乗り越えていくものが人間への認識であろうと思います。〕
・社会学や哲学からは他に何が枝分かれしているのか?
〔社会学から枝分かれしたものとしては、行為・行動・相互作用というミクロなもの、家族とかコミュニティとかの中間的なもの、社会構造や社会変動などのマクロなものがあり、多くの場合、◯◯社会学というような形をとり、それらは一括して応用社会学ということになります。哲学は、ギリシャ古代哲学は自然哲学からはじまり、アリストテレスなどは百科事典のように、自然、社会、人間、論理のすべてを哲学の対象としました。自然科学が哲学から解放されたのはデカルトからでしょう。またデカルトの時代の哲学(つまりルネサンス以降の17世紀の哲学)は、ホッブズの社会哲学、スピノザの人間哲学というように、近代的な哲学の源流が出揃います。哲学の場合には、枝よりも大きな幹を捉えることが大切でしょう。〕
・社会福祉学と教育学が生まれた時期は同じぐらいですか? 同じぐらいにできたのであれば、生まれた当初からお互いがお互いを必要とする学問であったと思うと、深いなと思います。
〔思想および実践としての福祉や教育は、かなり古い時代からありますが、学問として社会福祉学と教育学が成立したのは、近代社会においてです。その初期に活躍したペスタロッチ(1746-1827年)は、孤児や貧民の子どもの教育から社会的活動を始めたのですから、彼のなかでは福祉も教育も1つのものであったでしょう。生活のなかで自然に身につけている「概念」に依拠することなしに教育は成り立たない、というペスタロッチの発見は、「生活が陶冶(とうや)する」という言葉で表されています。〕
・乳幼児の自我の芽生えについて、どのような乳幼児の行動がきっかけで大人は自我の芽生えだと判断することが出来るのですか? またイヤイヤ期が来ない子どもは自我が芽生えていないとなるのでしょうか?
〔ゼロ歳の中頃になると、子どもは自分の名前を呼ばれると、その声のする方を見ます。これは「自我の芽生え」の端緒的な現れでしょう。しかし、3歳代の「自分で」を乱発する時期こそ、他者とは違う自己を主張し始めた証しです。ただし、これも、まだ13歳頃から始まる「自分の内面」の探求にまでは至りません。それでも、自然発生的に、自分(の内面)を根拠に物事を理由付けることが起こります。たとえば、暖かい日に、自分がお母さんと散歩したら嬉しくなるように、大きい毛虫と小さい毛虫がならんで木をはっているのは、お母さん毛虫と赤ちゃん毛虫が散歩している、こんな天気の良い日なので、という具合に。イヤイヤ期がこないと思われる場合でも、上記のような毛虫の見方をする子どもは自我が芽生えていると見なしてよいでしょう。〕
・(スクールソーシャルワークの)他にも児童福祉論と教育学がつながっている職業や活動・制度があれば教えてほしいです。
・社会福祉学と教育学のつながりについて、事例がまだあれば教えていただきたいです。
〔近代の初期においては、ペスタロッチの事例でよくわかります。また、現代では、たとえば「子どもの貧困」などは社会福祉学と教育学の双方から研究がすすめられています。コロナ禍における最初の「緊急事態宣言」発出下において、全国一斉休校によって給食の停止が「食事をとれない児童」を増加させたり、また、病院での勤務を休まざるを得ない母親である看護師をかなり生み出したりし、現代の学校のもつ福祉機能について、あたらめて考えさせられました。〕
・さまざまな視点から見る必要があることは分かったのですが、社会福祉の見解に答えはあるのですか?
〔どういう意味での「答え」を意味しているのかがわかりませんが、①問題の科学的説明(自然科学的・社会科学的説明)と②問題の共感的理解、の2つが社会福祉には求められているように思われます。①はどちらかといえば制度や政策に、②は対人援助に、求められています。いわゆるエヴィデンスという明白な証拠は①の場合には成り立ちますが、②には成り立ちません。①と②が相互に支えあうような関係が社会福祉には最良であろうと思われます。〕
・子どもと大人・高齢者のすべてが何らかの点で繋がっているとはどういうことですか?
〔他の動物にはない人間に固有な特色、たとえば、思考と結びついた言語(たとえば独り言や内言)とか、自我とかが、人間の発達の各時期にどのような特色を帯びるのかを捉えておくと、それらのなかに、各時期において類似したものと相違したものが明らかになるでしょう。自我については後の講義で述べようと思います。〕
・小学生の頃など、やろうと思っていたことを先に親に「〇〇しなさい」と言われると途端にやる気が無くなるという経験を多くの人がしたことがあると思うのですが、これも自我の一種なのでしょうか?
〔「やる気が無くなる」という動機は年齢によって違いがあるように思われますが、どの場合にも、自我の状況と無関係ではないでしょう。〕
《講義メモ》
第2回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて① 「猿―未開人―現代の子ども」
はじめに
今回は、次の文献に示された、ヴィゴツキーの人間発達論(彼の最初の考え方)を伝えることにしたい。その文献とは、
◯ヴィゴツキー(1896−1934)他『行動の歴史に関する研究―猿・未開人・子ども』(1930年)
〔翻訳は、エリ・エス・ヴィゴツキー、ア・エル・ルリヤ著『人間行動の発達過程 : 猿・原始人・子ども』大井清吉, 渡辺健治監訳. 明治図書 1987年〕である。
ヴィゴツキーのこの研究(『猿・未開人・子ども』と略記)は、この時期のヴィゴツキーの人間発達理論(文化・歴史理論あるいは文化・歴史心理学と呼ばれる)をコンパクトにまとめたものである。
「本書には3つの心理学的概説が収められている。類人猿の行動、未開人の行動、子どもの行動についてである。この3つの概説のすべては、1つの観念によって――発達の観念によって、結びつけられている。これらのすべては、猿から文化的人間に至る心理学的進化の道を系統的に呈示する、という目的を持っている。」(1993年版、p.19)
いいかえれば、この研究は、生物の進化、人類史、個人の歴史を1つの発達図式にまとめようとしたものである。現代の人間の発達は、この進化・人類史・個人史の所産であること、彼の内部には、この3つの行動の発達がすべて含まれていることを、チンパンジー・未開人・現代の子どもの具体的な諸事実を通して明らかにしようとした。
もちろん、ヴィゴツキーはこのコンパクトな本に、この3つの行動のすべての内容を含めようとしているのではない。彼は、3つの行動のそれぞれにおいて、それまでの段階を転換させ次の段階を開拓するような「転換と危機」をこそ解明されるべきだと考えた。
その「転換と危機」とは何かを具体的にいえば、
猿の行動における「道具の使用」、
未開人の行動における「労働と心理学的記号の使用」、
子どもの行動における自然的発達と文化的発達との分岐〔二分化〕、
である。これらが、発達のタイプそのものを変化させたのである。
今回の講義では、この考え方のキーポイントを述べることにしよう。
I チンパンジーと道具の発見・使用
【本能−条件反射−知能】
生物の進化は、ダーウィンによれば、環境への適応の歴史である。まず、環境への適応として、もっとも広範に考えられるものは、「本能的な行動」である。この行動は有機体としての基本欲求の充足と環境適応をめざすものであり、それは種の自己保存に深く関わっている。その上に増築されているのが脊椎動物に見られる「条件反射の行動」である(パブロフによる犬の実験は有名)。この条件反射の水準で見られるのは動物の「見習い」と「調教」、「模倣」があるが、これらには新しいものの創造はない。ヴィゴツキーは、ダーウィンが「種の起源」を明らかにしたのに対して、パブロフは条件反射の解明を通して、「個体の起源」を明らかにした、と言う(1993年版、p.25)。その意味は、本能が恒常的・固定的・安定的な環境適応の手段であるのに対して、条件反射は、この本能的諸反応を基礎にしながら、個体の学習によって、本能的諸反応が組み合わされることなのである(たとえば、餌を見るとよだれが出るなどの食餌反応、食餌を得ながらベルを聞く→ベルを聞くだけでよだれが出る)。
動物のなかに見られる進化の最後の段階は、「知能的な行動」である。これが類人猿に見事に見られ、また鳥類ではカラスに見られるものである。
ここでは、ケーラー『類人猿の知恵試験』宮孝一訳、岩波書店、1962年〔ドイツ語の初版は1917年〕にもとづいて、チンパンジーによる道具の発見・使用にあらわれた知能について、明らかにしておこう。
【「まっすぐな道」と「まわり道」】
ケーラーは、「どのような実験をおこなうのか」という実験の設計を念頭におきながら、知能(知性)とはどういうものか、について語っている。チンパンジーが、遮るものなしに、バナナ(目標物)にまっすぐに進んでそれを得るとき、そこに知能が働いていたとは言いがたい(人間の場合もそうであろう)。遮るものがあって、にもかかわらず、目標物を手に入れようとするとき、そこに知能が働いている。
たとえば、自分と目標物の間に金網があり、まっすぐ取りに行くことができない。ところが、よく見渡すと、横の方に自分が出入りできるスペースが空いている。そこを通れば、金網の向こう側に置かれた目標物を手に入れられる。そのとき、知能が働いたのである。
これは文字通りの「まわり道」であるが、ケーラーは比喩的な意味でも「まわり道」を設計した。何らかの形で直接にはバナナは手に入らないようにする(たとえば、高いところに吊るされたカゴにバナナを入れておく)。そこに棒や箱を置いておき、あるいは、カゴにヒモを結わえておき、それらをバナナを手に入れる道具として使えるか、また、道具を製作することができるのか、を見ようとしたのである。
〔参照:「まわり道」について、ケーラーはチンパンジーのみならず他の動物や小さな子どもをも相手にして実験を行なっている(『類人猿の知恵試験』第1章「迂り道」参照、pp.10-22)。①ヨチヨチ歩きの1歳3か月の女児、②犬、③ニワトリの場合の「まわり道」はどのようなものであったか。①の女児は上記のチンパンジーと同じように「まわり道」をすぐに使うことができた。③のニワトリたちはあちこちと集団で歩きまわりながら「試行錯誤」し、最終的には目標物に辿り着いた。②の犬の行動は極めて興味深いものがあった。——チンパンジーと同じように「まわり道」を使うことができるが、その同じ犬が目標物(肉)が金網の向こう側だがすぐそばに置かれると、とたんに直接取ろうとして金網にぶつかる。それは犬の鋭い嗅覚が「まわり道」を放棄させているのではないか、とケーラーは推測している。同上の書物p.12参照。〕
【「見渡せる」という条件:「視覚的場」】
チンパンジーが「まわり道」に沿って行動するときに、ケーラーが重視したのは、目標物、棒、箱を「見渡せる」ように配置すること(これを「視覚的場」と呼ぶことができる)であった。「見渡せる」ことが必要であったのは、チンパンジーはたとえば昨日使った棒がそこにないと、別の場所に探しに行ったり、あの棒を持ってきてくれと要求しないからであろう。
【いくつかの道具の使用と道具の製作(写真を参照のこと)】
棒を道具として使用している写真、二つの棒をつなげている写真(棒=道具の製作)、箱を使用している写真(これも道具の製作と考えられる)を示しておこう。
ケーラーの実験のなかでもっとも高度と思われる事例は、いったんバナナを棒で自分から遠ざけてバナナを得る、ということであろう。普段なら棒でバナナをたぐり寄せて得ることができるのに、下の方に細かい金網がはってある。ところが、ちょうどバナナを手で取れるくらいの穴が横の方の金網に空けられている。すると、一旦、棒で穴の方にバナナを寄せる(自分から遠ざける)、そのあと、その穴からバナナを手に入れている。
*チンパンジーの道具の使用の研究史について、平田聡の記述で不正確な箇所
平田聡は、2匹のチンパンジーが協力して道具を使用する特徴を実験によって明らかにしようとするような、きわめて先駆的な研究をおこなった。しかし、残念なことに、以下の記述は不正確である。チンパンジーの道具使用について最初に実験と観察をおこなったケーラーが取り上げられていない点を指摘しておきたい。平田は次のように書いている。
「まずはチンパンジーの道具使用について簡単に説明しよう。チンパンジーは、ヒト以外の動物の中でも、もっとも多様な道具を使う。1960年7月、アフリカのタンザニアの森で、イギリスの動物学者ジェーン・グドールが野生チンパンジーの観察を開始した。タンザニアの森から、グドールは驚くべき報告をおこなった。チンパンジーが道具を使うのを観察したという報告だ。ヒト以外の動物が道具を使う。当時は考えられなかったことである。ヒトだけが道具を使う賢い生き物だと思われていたからだ」(平田聡『仲間とかかわる心の進化』2013年、岩波科学ライブラリー、p.25〜26。下線による強調は引用者)。
ケーラーの本〔今回のおすすめ本の『類人猿の知恵試験』〕は1917年にドイツ語で出版され、英語版は1925年、フランス語版は1928年に出版されていたのだから、チンパンジーの道具使用はグドールの発見よりも40年以上も前に発見されていた。正確に言えば、ケーラーが実験的条件において発見した事実がグドールによって野生の条件でも発見され、ケーラーの明らかにした事実がより確実なものとして実証された、と言うべきものである。
平田聡の本については上記の箇所は同意できないが、それ以外はおおむね同意できる、協同的知能に関する知見に満ちた本である。
II 未開人の記憶、言語・思考、数
【チンパンジーにおける道具と未開人における道具】
ヴィゴツキーは、チンパンジーによる道具の製作・使用に関するケーラーの実験に注目し、それを人間以外の動物の進化における最後の段階と特徴づけた。そして、それとは質的に異なるが、未開人の道具の製作・使用という点において、人類史との接点を見出そうとした。
その参考のために、ケーラーが類人猿と未開人との道具の扱いの相違について述べたことを、ここに取り上げておこう。以下のケーラーの「まとめ」は人間について考える上でも示唆的であるからだ。
「多年チンパンジーと一緒に暮らしてきて、私に推察されることは、類人猿と未開の自然人とのなんとしても抹殺することのできない巨大な懸隔は、言葉が彼らに欠けていることのほかに、彼らの精神的生活時間が極めて狭くかぎられていることに基くと思われるのである。何故にチンパンジーが文化的発達の初歩にも到達していないかは、この上なく貴重な技術的補助手段(言語)の欠けていることと、最も重要な知性の材料すなわち「心像」(観念)が限られていることに原因していると思われる」(『類人猿の知恵試験』邦訳、p.258)。つまり、言語、イメージ、精神的生活時間の長さ〔未来を見通す力〕を持っているのが人間である、ということになろう。
同趣旨のことをケーラーは道具の製作についても述べている。「現代の最も未開野蛮な人間といえども、彼が今掘ろうとしていないときでも、またたとえ道具の使用に対する客観的条件が眼に見えないときでも、堀り棒を作り整えるということはする。そして彼が前もってこのように配慮をするということが、疑いもなく、文化の発生に関連しているのである」(同上、p.268)。ケーラーのこのことばは、彼が行ったあるチンパンジーの観察が念頭におかれている。このチンパンジーは、果実を手にいれるために、大いに工夫して竿を整えている(道具の製作、および、文化の萌芽)。しかし、その果実をそのとき実際に見ながらそうしているのである。もし、そこに果実(目標物)がなく、時間的にもっと離れた未来のために竿を整えているのであれば、そこには観念・イメージがあると考えられるのだが、ケーラーが言うには、そのような事例は観察できなかったようである。
ここで、人間を捉えるうえでの、動物における本能・条件反射・知能の意味について、ヴィゴツキーが考えるところを簡単にのべておけば、
※動物における本能:「人間の情動の原像」(たとえば、「人間の恐怖と怒りのなかに捕食動物の逃走と攻撃の痕跡を見出す」p.65)、
※動物の条件反射:「個体の起源」(p.25)、
※動物の知能:「人間の知能のもっとも本質的な特色―道具の発明と使用―は、...もっとも単純な道具を発明し使用することのできる猿の行動へと遡る」(p.65)、
ということなどである。
【未開人の記憶、言語・思考、数】
◯未開人の感覚の優越性
現代ではもちろん、ヴィゴツキーの時代でも、すでに純粋な意味での未開人はほぼ存在しない(いるとしても例外的である)。したがって、未開人の研究において、使われている資料は、宣教師の記録、冒険家の手記、民族学者や人類学者の研究などである。
未開人の心の動きの3つのモメントとして、ヴィゴツキーが取り上げたのは、記憶、言語・思考、数であった。それらの各論に入る前に、未開人の発達を全体としてどう見るべきなのか、という点から考えてみよう。
この点で、ヴィゴツキーが強調しているのは、人間の歴史的発達は、人類史の発展につれて、全般的な「未発達」から「発達」した状態に進んでいくのだとおもわれがちだが、けっしてそうだとは言い切れないこと、とくに、感覚においては、未開人の方が現代人(文化的人間)よりも優越していること、である。ヴィゴツキーは、おおむね、次のように述べている。
観察者や旅行家の書いているもののなかで目立つのは、「文明化されていない人間の視覚の異常な鋭さ」、「彼の聴覚と嗅覚との異常な鋭さ」、「大きな忍耐力」、「本能的な狡賢さ」、「方向を定める技能」、「周りの環境・森・荒地・海の知識」、である。「皆が声を合わせて賛美したのは(学術的研究もそれをことごとく肯定した)、未開人のいわゆる『追跡性』であり、つまり、ごく僅かな痕跡をもとに、出来事や状態などの極めて複雑な状況〔カルチーナ〕を再生すること、であった。」(1993年版、p.74)
なぜ、そのような優越性が生じるのかについての理論的考察は省略するが、わかりやすいのは、未開人を取り巻く生存条件(たとえば、獲物の狩猟、動物や他の種族からの防衛を行うために、「ごくわずかな痕跡」から「状況」を再現することは不可欠であった)の故に、生み出されたのであろう。
こうした優越性の見方は、未開人の心理的行動として、ヴィゴツキーが主としてとりあげた、記憶、言語・思考、数にも相通じている。
◯未開人の記憶
未開人の記憶について考察する場合、問題にしているのは、話しことばはあるもののまだ文字を持っていない人の記憶だ、ということである。そこから、記憶においても、独特な鋭さや優越性が生まれている。
いくつかの例をあげてみよう。
オーストラリアの先住民(アボリジニのことか?)には、足跡の記憶があり、知人の誰の足跡かがわかる、と言われる。
クイーンズランド(オーストラリア北東部)の先住民は、5夜以上を必要とする一巡りの歌を正確に再現した。
アフリカの先住民においては、首長の使者たちは長いメッセージを遠く離れた地に正確に伝えた。使者たちは2、3人で構成され、毎夜、彼らは逐語的に伝えられるように、メッセージを繰り返した。
未開人の地形記憶(土地の詳細なディテールまで記憶している)。
北アメリカの先住民は、ある土地に1度入ればその状況を正確に記憶し、また、森が伐採されても、方角がわからなくなることはなかった。等々(1993年版、pp.80-81)
※なお、レヴィ−ブリュールは、こうした記憶は「未開人の言語の豊かさにも、文法の複雑さにも、現れている」(1993年版、p.81)、と述べている。
直観像記憶について
「ある人間は1度示された対象や絵を、それらを熟視した直後あるいは長い時間的間隔をおいた後でさえ、文字通り再び見ることができる」。「このような人たちは直観像保持者と呼ばれ、記憶のこの形式そのものは直観像と呼ばれる。」(1993年版、p.83)
このような現象は1907年頃に発見されたが、その後、子どもの心理研究のなかで解明されてきた。
未開人においては、暗闇のなかでリアルに動物が描かれている洞窟画は直観像にもとづいているのではないか、と推論されている(ブロンスキーによる。1993年版、p.86)。また、直観像を詳しく研究したイエンシュは、レヴィ−ブリュールが集めた人類学的データにもとづきながら、未開人の記憶は子どもの直観像記憶に似ていると、結論づけている(1993年版、p.85)
さらには、現代では、チンパンジーを対象にした直観像記憶の実験さえ行われている(松沢哲郎『想像するちから―チンパンジーが教えてくれた人間の心』岩波書店、pp.169-176)。
こうして、直観像記憶は類人猿、未開人、現代の子どもに及ぶ広範囲に存在し、現代の人間の多くは、子どもの時代にこの種の記憶を失うのである。
ことば(概念)による記憶、および、記憶に補助手段について
現代の少々年長となった子どもや大人が、直観像記憶を失うのは、ことば(概念)が豊かになり発達するにつれてである。
ヴィゴツキーはそれについて、「私たちの経験は概念に凝縮されており、それ故に私たちは具体的諸印象の巨大な塊を保存する必要性から自由である。未開人の場合にはすべての経験が記憶にもとづいている」と述べ、未開人の記憶と現代人の記憶はディテール(細部の詳細さ)を含む量的な違いだけではなく、質的な違いがあると考えている(1993年版、p.80)。その質的な違いとは、未開人の記憶が事実羅列的であるのに対して、現代人の記憶は概念的な性格をもつ(たとえば、類―種―個、あるいは、普遍―特殊―個別というような階層的な分類による記憶)ことであろう。
文字以前の「文字」
さらに、現代人は文字で記録し、その記録を見て思い出す、というような記憶のあり方が一般的であろう。記録をすれば、忘れてもいいわけである。まだ文字をもたない未開人には、記憶の補助手段として、文字の代わりをするものがあった。たとえば、紐の結び目に意味を持たせるという結縄(けつじょう)で、インカ帝国のキープは有名である。それによって、その土地の農作物の収穫量や家畜の数などを通信しあったようである。
※記憶、さらには広く心理機能の補助手段がもつ理論的意義については、次回に述べることにしたい。
◯未開人における言語と思考
未開人の言語の具体性・事実性
未開人の言語は、その語彙の豊かさがわかりやすい特徴である。それはすでに紹介したが、「記憶との密接な関係」のなかにある。ヴィゴツキーは次のように指摘している。―彼らの言語は、「語彙の大きな豊かさ」、「多様な表示の豊かさ・多量・豊穣の程度において、文化的諸民族の言語を比較にならないほど優越」している。「私たちは正確に話す意図をもっているが、先住民は絵を描くように話している。私たちは分類しているが、彼は個性化している」(1993年版、p.95)。
たとえば、タスマニア人は、「甘い・苦い・固い・冷たい・長い・短い・丸い、という性質を表示するための語を持っていない。彼らは『固い』の代わりに、石のように、を使う。『高い』の代わりに、高い足のように、『丸い』の代わりに、玉のように、月のように、を使い、さらに、これらを明らかにする身ぶりが付け加わる」。カリフォルニアでは「〔ことばの〕属も種も存在していない。樫の各々、松の各々、草の各々はその特別の名辞を持っている」。オーストラリア人は「人間の身体のごく小さな部分のほとんど各々にとって個別的な名辞を持っている。たとえば、彼らには『手』という語の代わりに、手の上の部分、中程の部分、先端の部分、右手、左手などを表示する、多くの個別的な語が、存在している」等々(1993年版、с.96)。
逆に言えば、未開人の言語には一般的な概念を表す共通名詞が欠如していることが多い。たとえば、「オーストラリア諸民族の言語は、たとえば、一般的概念を表示する語がほぼ完全に欠如しているが、これらの言語は、諸対象の個々の指標や個性を区別する・大量の特別なタームに溢れている」。オーストラリア先住民人には、「木、魚、鳥などの一般的な語は存在しておらず、木、鳥、魚の個々の特別の種に適用される特殊的なタームだけがある」。
※このことは現代人として生きている私たちにはイメージしにくいものであるが、その逆のことは、つまり、一般的な共通名詞は知っているが、その種を表す名詞については知らないということは、よくわかる。それは外国語学習のなかでのことである。私たちはfish(魚)の語は比較的早く学び身につける。そのこともあって、外国の航空会社の飛行機に乗って、食事サーヴィスを受けるとき、《Fish or beef ?》(お魚にしますか、お肉にしますか)とキャビンアテンダントさんは選択をきいてくる。本当は、毎日、同種類のfishではないであろう。お寿司屋に行ったとき、何種類もの魚と出会うのだが、それらを日本語で言うことはできても、英語で同じように言える人は少ないであろう。未開人の言語は、ちょうど、そのような外国語と反対の特徴があることになる。
Dance with wolves
未開人が人の名前をどのようにつけているのかを知る上でも、言語の事実性が重視されているという観点から、理解しやすいケースがある。上記のDance with wolvesはあるアメリカ映画の題名である。それが描いたものは、ネイティヴ・アメリカンの視点からの近代アメリカ史である。もちろん、描写されているのは歴史全体ではなく、ひとつの逸話を通した歴史であり、滅びゆくネイティヴ・アメリカンへのオマージュ(homage、献辞)である。
この題名は、実は、人名(狼と踊る男)を表している。ネイティヴ・アメリカンのある種族の仲間となった白人について、この先住民がつけた名前なのである。先住民は本当の名前はちょっと大きくなってからではないと付けられない、という。ある夜、ひとり炎と戯れながら踊るこの男を、しばらく前から親しくなっていた狼がちょっと離れてじっと見つめている。その光景をひそかに見た先住民たちが付けた名前がこれなのである。
未開人のことばとしての特徴を明確にするために、一般的な欧米人の名前と比較しておこう。たとえば、欧米人の名前は、聖書に出てくる聖人に由来することが多く、きわめて面白いことには、国際的にも同じ名前があるということである(呼び方は異なるが)。イギリスのジョン、ドイツのヨハネス、フランスのジャン、イタリアのジョバンニ、ロシアのイワンが、それである(金田一春彦『日本語(新版)』上、岩波新書、1988年、263ページ)。これと比べれば、Dance with wolvesは、この人だけの名前であることがわかる。一方では国を超えて多くの人が同じ名前をもつことと、他方ではその人だけの固有な名前というのは、実に対照的である。
複合的思考
以上のような、事実的で個性的な対象の命名を特徴とする言語には、概念に照応する言語である共通名詞(共通表象)が欠けていることは容易に理解できる。ヴィゴツキーは、概念的思考が生まれてくる直前までの思考の発達の観点から、未開人の言語の発達を、概ね、次のような3つの段階にまとめている。
「思考の発達における基本的進歩は、
①固有名詞としての語の使用の第1の様式から、
②語が複合の記号であるときの第2の様式へ、
③最後に、語が概念の育成のための道具または手段であるときの第3の様式へ、
という移行のなかに絡まっている」(1993年版、p.107)
①の段階は、広い意味での記憶が心理機能の中心となるが、思考は、記憶と記憶を連合(連想)させる単純な働きとして始まる(1993年版、p.104)。
②の段階は、複合(複合的思考)の段階である。ここで、語をもとにした思考が始められるのだが、これには、少々独特な分類がつきものである。たとえば、分類(集合)も、男性の集合、女性の集合とか、年齢による分類(たとえば、18歳未満、以上というような分類)、居住地による分類、職業による分類など、調査のときの「属性」にあたるような分類(集合)は、問題の概念化において意味をもつのだが、姓(ファミリーネーム)による分類には、とりたてて意味はない。このような姓による分類(集合)が複合と呼ばれるものである。
ところで、概念によって思考する(概念的思考)私たちとは異なって、未開人は複合によって思考する(複合的思考)。たとえば、レヴィ−ブリュールの報告によれば、南米のボロロ族は、「自分たちは金剛インコである」と言っているが、それは、自分たちの祖先は金剛インコであるとか、金剛インコの生まれ変わりである、という意味ではない(概念的思考では、時間的因果関係が重視され、そのように捉えられる)。ボロロ族は自分たちは人間であると同時に、「自分たちは金剛インコだ」と言っているのであり、この意味は、自分たちは「人間という集合」とともに「金剛インコという集合」に同時に属していることである(1993年版、p.106)。
こうしたことは、私たちの普通の思考様式(概念的思考の様式)からは「論理矛盾」であるとか「ありえない集合」であるとかと理解する以外にはなく、複合的思考の様式によって、はじめて理解できるものとなる。
なお、現代の子どもにおいても、小学生の場合には複合的思考がまだ主流をなしている。
③未開人の言語のなかに、彼らが概念に近づいていくモメントがまったくないわけではない。ヴィゴツキーが指摘しているように、ある種族においては、木、魚、鳥それぞれの共通名詞が存在していないが、他の種族では、鳥、魚、蛇それぞれの共通名詞が存在している。これは何らかの生活上の必要があってのことであろう。また、ある種族の言語では、語根の「ピ」は空気中を運動するあらゆる事物を意味するあらゆる語に、たとえば、「鳥、ブーメラン、月、星、雷、鷹」の語に、含まれている(1993年版、p.107)。
もちろん、言語に含まれるこのような一般的な要素によって、概念や概念的思考が成立したと考えるのは、あまりにも事柄を単純化したことになるだろう。紀元前7〜8世紀に、古代ギリシャや古代中国に哲学者(知を愛する者)たちが生まれ、その人たちが対話や説教などを通して(広い意味での教育を通して)、概念や概念的思考が創り出されていったのではないか。
◯未開人と数・計算
未開人における記憶、言語、思考のどれをとってみても、現代人とくらべてみると、同じような貧しさ(一般性の欠如)とともに、現代人と比べた優位性(直観像記憶、言語の具体性、思考の具体性)がある。その優位性は、「具体性」「絵画のような形象性」にあった。実は、未開人の数・計算もまた同じ傾向が見られる。
自然算数
2〜3までしか計算できないと言われるが、むしろ、3より先に伸びていく抽象的概念の欠如している(1993年版、p.108)。これが未開人の数・計算の貧しさだと言えるが、それは同時に、現代人と比べた優位性にもつながっている。
ヴィゴツキーは次のように述べている。―未開人の計算の具体性あるいは形象性は次のように現れる。「もし未開人が3人または5人を表示したいとき、彼は人びとの総計を掲げるのではなく、トゥルンヴァルトが述べるように、彼が個々に知っている各人の名前によって〔数を〕挙げている。もし彼が名前を知らないなら、たとえば、次のような、何らかの別の具体的標識を列挙するのである。たとえば、大きな鼻の人、老人、子ども、皮膚病の人、1人の小さな子を、待っている、と。これらすべては、5人が到着した、と言う代わりなのである。」(1993年版、pp.110-111)
未開人には独特な計算方法がある。ヴィゴツキーはそれを「自然算数」と呼んでいる。その特徴は、「彼の計算は具体的知覚、自然的記銘、比較にもとづいている」(1993年版、pp.108)という点にある。たとえば、私たちには、目分量という語がある(その意味は、目で見ておおまかな分量を計ること)。自然算数はこれに近い。事例をあげるとすれば、10個のリンゴの山と4個のリンゴの山を比べて、どちらの山にリンゴがたくさんあるかは、数えなくてもすぐにわかる。ところが、100匹の羊と99匹の羊はどうか。私たちは、数えなければ比較できないが、未開人は一見すれば、それがわかるという。たとえば、100匹の羊を放牧して夕方に帰ってこさせると、1匹の羊が足りない。それがすぐにわかるのである。
文化的算数への道
以上が、自然算数の基本的な特色であった。それとともに、人類史のなかでは、自然算数から文化的算数への移行も見られる。自然算数が人間がもっている力のみによって「計算」することであるのに対して、文化的算数の特色は、何らかの補助手段を用いて「計算」することである。
補助手段はいくつもあるが、もっとも基本的なものは、身体を手段として計算、その次には、紐の結び目や計算木の使用、最後に、ローマ数字のような計算の補助手段を内に含んだような数字、である。
①身体による計算
身体のなかでも指を使った計算は、未開人の計算によく見られるとともに、子ども個人の発達においても頻繁に見られるものである。つまり、それは人類史と(現代の)個人の発達とのどちらにおいてもよく見られるものである。
ヴィゴツキー(1993年版、p.112)も金田一春彦(上述の『日本語(新版)』下、pp.73-74)も、レヴィ-ブリュール『未開社会の思惟』から、ニューギニアで話されているパプア語における身体を使った数の事例を上げている。そこでは、1は右手の小指、2は薬指、3は中指、4は人差し指、5は親指、さらに、6は右の手首、7は肘、9は右の耳、10は右の目、11は左の目、12は鼻、13は口、14は左の耳......と続いて、最後は、22は左手の小指で終わるようである。
これらは、数に対して身体の部位が「記号」となっているのである。
②結び目を使った計算
ペルー(インカ)の「キープ」が有名であり、結び目を解読し、また作成する専門的な官吏(結縄司[けつじょうし])も存在した。沖縄には、稾算(わらざん)が存在した。これらは確かに数や言語を表しているが、記憶の補助手段でもあった。
③簡単な計算が組み込まれたローマ数字
ローマ数字はすでに未開人の数ではなく、現代でも部分的に使われているのだから、文化的な数表記である。しかし、この数字は手の指がもとになっていることや、計算の簡易化が組み込まれていることなど、興味深いものである。
I、II、IIIは指を起源にしていること、5を示すVは、片手の親指と小指を表している、と解説されている(たとえば、ラテン語の辞書で)。6+7は、ローマ数字で表すと、VI+VIIであり、答えは13だとすぐにわかる。実際にしている計算は、1+2だけであるからだ。もっとも、数が大きくなり、X(10)、L(50)、C(100)、D(500)、M(1000)が多用されるようになると、計算が難しくなるのであるが。
※ちょっと長くなったので、今回はこのくらいにしておこう。
次回の講義の冒頭で、この続きを述べることにしよう。つまり、「III 子どもにおける自然的発達と文化的発達」、I〜IIIのまとめとしての「IV 人間発達の歴史理論」である。その後で、それ以降のヴィゴツキーの主な理論展開について紹介することにしよう(第3回後半から第5回まで)。
《今回のおすすめ本》
ケーラー『類人猿の知恵試験』宮孝一訳、岩波書店、1962年
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