〔2021/04/26〕第3回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて② 「猿・未開人・現代の子ども」つづき、「現実の人間関係と個人内の機能」
〔2021/04/26〕第3回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて② 「猿・未開人・現代の子ども」つづき、「現実の人間関係と個人内の機能」
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①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、
②それについての従来の自分の考え、
③自分にとっての「新しさ」の理由、
を含んでいるのが望ましい。
また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。
《前回の授業コメントより》
・チンパンジーに欠けているもの
①私が新たに発見した事実は、チンパンジーが文化的発達の初歩にも到達していないのは、この上なく貴重な技術的補助手段(言語)の欠けていることと、最も重要な知性の材料すなわち「心像」(観念)が限られていることが原因となっているということである。それはつまり、言語、イメージ、精神的生活時間の長さ(未来を見通す力)を持っているのが人間であるのだ。
②私はチンパンジーが文化的発達の初歩にも到達していないのは、言語が欠けていることだけだと考えていた。
③チンパンジーはとても賢く、人間と同じような行動をとることがあるので、この状態であとは言語さえ話すことができれば、チンパンジーも文化的発達の初歩に到達することができると私は思っていた。なので、この新たに発見した事実は自分自身にとってとても新しいものとなった。
・未開人と現代人
私が今回の講義で発見した新事実は、未開人の中にも言語や語彙、記憶、算数という概念があったということです。今のような形で言語や語彙、算数というものがなかったとしても、未開人特有の方法や表現の仕方、考え方などがあったことに驚きました。どちらが劣っている、どちらが優れているかという考え方ではなく、それぞれに特徴があるという捉え方をする必要があるということが今回の講義で分かりました。表現方法を一つとっても、共通名詞が欠如しているため、より物の表現が具体的になるといったことなど、この能力が欠如しているから、このような能力がついたなどと関連させて考えることの重要性も学べました。今回の講義で未開人と現代人の共通点なども考えてみると面白いかなと思いました。
・未開人、現代の子どもと「複合的思考」
① 未開人の言語は語彙が豊かであり記憶との密接な関係の中にあり語彙の豊かさに加え多様な表示・多量・豊穣の程度においてとても優れていて現代人である私たちは正確に話す意図をもっているのに対し先住民は絵を描くように話したりする事を初めて知りました。その中でも1番の発見はこの複合的思考という私たちの普段行う概念的思考様式とは違う思考の仕方を現代の子どもはしていて小学生の場合には複合的思考が主流であるという事実についてです。
②私は子どもの思考と大人の思考について。確かに子どもの方が考え方に豊かさや独創的な考え方や見方をするのに優れていると感じる事はあってもそういった子どもと複合的思考という考え方の関連性について考えた事はなく結局は思考の仕方の違いはは子どもと大人の知識や経験の差であると考えていました。
③私は、この発見から子どもの思考は大人よりも広く深くて子どもが良く大人の想像を超えた独創的な発想や考え方や世界を展開したりすることに何らかの形でつながっているのでは無いかと考えたり改めて大人は概念によって考えてしまうがそういった子どもの物事の考え方自体を今一度理解し子どもの立場から物事を捉えることはやはり大切ではないかと改めて考えました。以上が新しいと思った理由です。
・「まっすぐな道」と「まわり道」のケーラーの実験について
今回の授業で「まっすぐな道」と「まわり道」の部分で、女児とチンパンジーはすぐ知能が働きまわり道ができ、ニワトリは試行錯誤してまわり道ができ、犬は鋭い嗅覚がまわり道を放棄させているということが新しい発見である。チンパンジーは賢いというイメージがあったため、すぐ知能が働き、まわり道ができることは考えられたが、ヨチヨチ歩きの1歳3ヶ月の女児がすぐ知能が働きまわり道ができることに驚いた。まだ1歳3ヶ月の女児は成長過程にあるからそんな知能が働かないと思っていた。またニワトリもまわり道ができると思わなかった。そして犬はまわり道せず、直接取ろうとしたのは鋭い嗅覚が関係しているのではないかというケーラーの考えに納得できた。犬も歩けば棒に当たるということわざに何か関係しているのではないかと考えた。これらが私が新しいと感じた理由である。
・直観像記憶について
今回の講義メモを読んで、直観像記憶について初めて学んだ。未開人が暗闇でもリアルに動物が描くことができ、未開人ならではの特徴だと考えていた。しかし、それは猿人類、未開人、現代の子どもに共通する記憶の種類であることを知った。直観像記憶は、現代では子ども時代で失ってしまうそうだが、どうして大人になると失ってしまうのか調べてみたいと思った。このような記憶の種類を初めて知ったので、私にとって新しいことだと考えた。
*質問より
小タイトルの「未開人と数・計算」の中の文章で、未開人も現代人も記憶、言語、思考における同じような貧しさ(一般性の欠如)があると説明されていますが、「貧しさ(一般性の欠如)」がここではどういった意味であるのか理解が少し難しかったです。
〔未開人の数において「一般性が欠如する」とはどういう意味なのかという質問ですね。講義メモに書いた、5人が到着したという代わりに、未開人は「個々に知っている各人の名前によって〔数を〕挙げている。もし彼が名前を知らないなら、たとえば、次のような、何らかの別の具体的標識を列挙するのである。たとえば、大きな鼻の人、老人、子ども、皮膚病の人、1人の小さな子を、待っている、と」。ここにまだ数が一般性を持っていない事例があります。それはちょうど、魚という共通名詞がなくて、個々の魚の種類をあげるのと似ています。さらに、「身体による計算」のところで示しましたが、身体をつかって22まで数える未開人がいる。これは、先の5人がやってきたことを個々人の名前を上げて表すことよりも、数の一般性に一歩近づいているかも知れませんが、これは数とか計算というよりは、ヴィゴツキーが言うように、「ナンバリング(番号づけ)」なのだと考えられましょう。現代の小学1年生が「指を折って数える」ことから計算することに移っていくのに苦労するように、そこには数のもつ一般性の有無という問題が潜んでいます。〕
(未開人の言語の事例から)思考は言語がもととなって始められることが理解できたが、集合に関してどのような繋がりがあるのかを理解することが少し難しいと感じた。
〔未開人の言語が固有名詞、個別的なモノの命名に溢れているものの、共通名詞が少ない、場合によっては欠如している、ということは理解できたかと思います。未開人の思考が個別的なモノや個別的な種類に傾いていることは明らかであるが、他方で集合名詞(サクラ、ウメ、タケではなくて木)によって「一般的なもの」(これはある特徴にもとづく集合である)を表すことができる。そうした特徴のうち、階層をもった特徴(たとえば、鳥類―スズメ目―ウグイス科......)による集合が「概念」です。この「概念」と個別性(個別的なモノや個別的な種類)とのあいだに位置するものが「複合」です。〕
オーストラリア先住民が使う、木、魚、鳥の個々の特別な種に適用される特殊なタームとは何ですか?
〔具体的には記されていませんが、「木」という集合名詞はないが、例えば、サクラ、ウメ、タケというような個々の種類を表す語はもっている、という意味でしょう。〕
現代人は発展のために言葉などが増えたり変わったりしていると思うが、未開人の言語は一般的概念を表示する語が欠如していてそれは不便とは思わなかったのか、鳥や魚などの共通名詞を作ろうとは思わなかったのかと疑問に思った。
〔生活や労働の観点から言語を捉えてみることが重要でしょう。この場合、一般的概念がなくても「不便ではない」生活とはどのようなものか、という具合に。たとえば、津軽には「7つの雪」が降るという演歌がありますが、エスキモーには7つどころか、雪の種類を言い表す数十の語があるようです。「あそこは◯◯雪だから狩りはやめた方がよい」というように、この場合には、雪という集合名詞はあまり意味をなさないのではないでしょうか。〕
まわり道の研究において、ニワトリには集団で実験を行っているのはどうしてか?
〔ケーラーの実験によれば、ニワトリの特徴は「試行錯誤」であり、直接に金網にくちばしを突っ込んで餌を取ろうとする個体もあれば、ウロウロと歩いて行く個体もいる。それらがお互いに刺激し合い、結果的に「まわり道」を発見するようです。おそらく、ニワトリは集団において実験されているのは、そのような条件においてこそ「試行錯誤」という特徴が顕わになるからでしょう。〕
文字以前の「文字」はキープ以外にどのようなものがあったのですか?
〔文献上では、紐の結び目(結縄)と木を刻みに入れること(刻木)が文字以前にあったとされています。〕
なぜ、子どもの時にあった直観像記憶が大人になるとなくなってしまうのか疑問に思いました。
〔ヴィゴツキーらの書物では、未開人と子どもに共通するものと述べられていますが、現代の研究ではチンパンジーにも直観像記憶が認められます。これらの事実から、見たままの記憶(直観像記憶)が進化や歴史における知能の誕生に深く根ざしたものであることを示していましょう。小学低学年を超えるあたりから、直観像記憶は姿を消していくようですが、考えられることは、ことば(言語)が直観像とは別の文化的(媒介的)記憶を産み出すからでしょう。〕
《講義メモ》
「猿―未開人―現代の子ども」つづき
※前回述べた点だが、生物進化、人類史、子ども個人の発達のそれぞれには、次の発展のフェイズをもたらしていく「転換点(危機点)」がある。すなわち、①生物進化においては、類人猿等における知能の誕生(道具の発明・使用)、②人類史における道具の発明・使用と人間的言語の誕生とに関する心理学的諸要素、③子どもにおける自然的発達と文化的発達の分岐、である。
今回は、子どもにおける自然的発達と文化的発達の分岐から始めよう。
III 子どもにおける自然的発達と文化的発達
【自然的発達と文化的発達】
大まかに人間の発達を捉えると、
①自然的なものの成長という植物的発達観(子どもの成長を植物の種子の発芽・成長に擬える考え方)、
②文化の習得という文化主義的発達観、
③自然的発達が直接的に延長されて文化的発達となるという輻輳(ふくそう)的発達観、
の3つとなる。
①と②とは正反対な考え方であり、③はその両者を関連づけようとした考え方である。
①は歴史的な意味では価値はあるが、現代ではすでに古い考え方である。
②は人類の歴史のなかで人間を捉えるには有効な考え方であるが、現代(同時代)において何らかの実践をすすめる上で個人の多様性を理解するには不十分であろう。
③は、①と②との両方を踏まえようとしているが、その関係づけが単純である。たとえば、子どもの年齢が低い時は①の考え方で、より大きくなれば②の考え方で、といっているだけで、木に竹を継いだようなものであろう。この点では、ヴィゴツキーの言うことは示唆に富んでいる。
ヴィゴツキーによれば、自然的発達から文化的発達への移行は直線的ではなく、そこには「断絶」と「跳躍」がある。言いかえれば、キーポイントとなるのは《自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」》という発達観である。
【自然的発達と文化的発達との「断絶」を埋めるものとしての教育】
自然的発達と文化的発達のあいだには断絶があり、いわば、人間における自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」がある。この断絶を埋め、飛躍を支えるものが、教育だと、ヴィゴツキーは考えている。ヴィゴツキーは母語や数・計算の発達、習得がそれをよく表している、と述べる。
数と計算を事例にあげてみるなら、小学1年生が1学期に学ぶ算数の一部に、1桁の足し算や引き算がある。その学習をしている子どもを見ていると、指を折って数える、時計に書かれた数字の列を見ながら数えるということから、頭の中で計算する(暗算する)ことへと移っていくのが、いかに難しいことかがわかる。いわば、計算の自然的発達から文化的発達への断絶や飛躍がここにあり、ここで子どもを支えるものが教育であることがわかる。自然的発達から文化的発達への過程は、輻輳的に実現されるのではなく、教育的に実現されるのである。
【記憶の発達の事例から】
『猿・未開人・子ども』第3章には、子どもの「記憶」「注意」「抽象」「ことば・思考」それぞれの、自然的発達と文化的発達(補助手段による媒介的発達)の実験が紹介されている。その主要な結論は、どれにおいても、同様なものであったので、「記憶」にそれらを代表させて述べることにしよう(pp.171-172)。
その実験では、異なる年齢期の子どもたち(4〜5歳、5〜7歳、7〜12歳、12〜15歳)に、次のような課題が与えられた。――まず、10個の語を直接的に記銘し、そののちに、補助的な絵カードの助けによって、できるかぎりの語を記銘する、という課題であった。
まず「補助的な絵カード」とは、語の語義を直接に表現したもの(劇場なら劇場の絵)ではなく、その子なりに、その語義と何らかの関連が感じられる「絵」が描かれたカードである。例えば、次のような事例が示されている。
1 『劇場』という語に関連して、子どもは海辺にいる海老を描いた絵を選ぶ。この子は海老の絵を選んだ理由を、『海老は海辺にすわって、水の下の小石を見ている。小石は美しくて、海老には劇場なのだ』と述べた。
2 『シャベル』という語に関連して、子どもは塊をついばむヒヨコを描いた絵を選ぶ。子どもはこの絵を選んだ理由を、『ヒヨコはくちばしで、シャベルのように、土を掘る...』と説明している。
3 『願い』という語に関連して、子どもは『飛行機』の絵を選ぶ。その理由を、『僕は飛行機に乗って空を飛びたいから』と説明している(1993年版、p.171)。
次の図はこの実験の結果をまとめたものである[図30、p.173]。
実線aは、記憶の文化的(媒介的)発達を表す
点線bは、記憶の自然的発達を表す。
区切りになっているのは、3-5歳、6-7歳、7-12歳、12-15歳、20-30歳
これについて、解説しておこう。
①低年齢の就学前児〔3〜5歳児〕は、あまりにもわずかな素材しか記銘していない。平均すると、15個の与えられた語のうち、彼が記銘したのは、2.12個の語だけであった。私たちが助けとして彼に与えた絵によっても、ほとんど語の記銘は上昇しなかった。(就学前児の記憶は主として機械的に働き、単純な自然的印象の境界を超えない。小さな子どもにおける形象的な直観像記憶の発達も、明瞭に、このことを示している)。
②年長の就学前期〔5〜7歳〕になると、事態はすでに著しく改善されている。この時期には、補助的記号の適用は、記銘された語の量を81%まで上昇させている。
③第1学齢期〔7〜12歳〕になると、媒介的記銘への移行にともなって記憶はさらに著しく増大する。そこでは、外的記号の活用は、記銘されるものの量を平均して2倍に上昇させている。その後も、補助的手法の利用は効力をもちつづけるが、それと並んで、外的補助手段を用いない記憶も著しく成長する(1993年版、p.172-173)。
※重要なことは、記憶の文化的発達(媒介的記憶の発達)が自然的発達(自然的記憶の発達)に付け足されているだけでなく、自然的記憶そのものをも増大させていることである。
このことは、記憶のみならず、注意、抽象、ことば・思考においても生じているのである。
IV 人間発達の歴史的見方
すでに指摘したように、ヴィゴツキーが考えるには、①生物進化(本能、条件反射、知能=道具の発明・使用)、②人類史(道具、ことばと思考)、③個人の発達の歴史のすべては、「1つの観念によって――発達の観念によって、結びつけられている」(1993年版、p.19)。
【時間を基軸に】
ところで、上述の「発達の観念」とはどういうものか。
きわめて一般的に言えば、時間というものを基軸にして人間を捉えることを、意味している。
この時間は、人の一生を見れば明らかなように、ただ平坦、均等に過ぎていくものではない。体重や身長のように、ただ量的に増大するだけではない。生物進化の領域では、恐竜の絶滅のような、大変動が起こった。人類史の領域でも、同じように、人類は、その社会体制がひっくり返るような、危機と転換の時期を何度も体験した。個人の発達史の領域でも、子どもが大人になるまでの時期だけでも、1歳、3歳、7歳、13歳、17歳の危機と呼ばれるような、大小の質的変動を繰り返している。
天体の運行のように規則正しく、等間隔に、時は刻まれている(もちろん、人間にとって、太陽が燃焼されつくされるあいだのことであるが)。そのなかで繰り広げられている種々の生物の営みは、時そのもののように平坦なものではなく、質的な変化・変動に満ちているのである。
【人間発達の歴史的見方】
以上のような、生物進化、人類史、個人の発達史を「発達の観念」によって結びつける見方を、人間発達の歴史的見方と呼んでおきたい。その特徴は、次の3点にあるだろう。
①すでに述べたように、平坦ではなく、質的な変化・変動に満ちていること、
②一つひとつの進歩が同時に退歩を含んでいること〔このことは、たとえば、ことばが豊かになるにつれて直観像記憶が失われていくこと、それによく似た現象であるが、ことばそのものが持つ具体性・個別性が共通名詞(一般性)に席を譲ること、などに現れている〕、
③(これはヴィゴツキーの特有な特徴であるが)手段がもつ意味こそ、歴史的な見方の中心となるべきもので、生物進化においては道具の発明・使用、人類史においては生産様式、個人の発達史においては補助手段の発達が中心であること。(ヴィゴツキーら『猿・未開人・子ども』の冒頭には、次のようなベーコンのことばが題辞として記されている―「素手も、知性それ自体も、大して価値はない。道具と補助が事をなすのである。」、フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガムヌ』第1巻、「自然の解釈と人間の支配とに関する格言」II、1620年)。
【自然の支配と自己の支配】
以上のような歴史的見方から人間発達に分け入っていくとき、ヴィゴツキーは、ダーウィン、マルクス、エンゲルスらを土台におきつつ、人間の発達の特徴、とりわけ、類人猿と人間との根本的な相違を、「自然の支配と自己の支配」のなかに見出している。
『動物は外的な自然を利用するだけであり、自分はただそこにいるというだけの変化を、自然のなかにひき起こすにすぎない。人間の方は、自己の変化によって、自然を自己の目的に役立たせ、自然を支配する。この最後のものは、他の動物との人間の重要な相違であ』る―エンゲルス(1993年版、p.62)
猿にとっての特徴は、「自分自身の行動の支配が欠如し、人為的記号の助けによって行動を支配することができない」ことである。人間の心理学的発達の領域において、自分自身の行動過程の支配は人間に可能となった記号の発明と使用との時から始まり、「行動の発達の歴史はおおいに、人為的・補助的な『行動手段』の発達の歴史に、また、人間による自分自身の行動の支配の歴史に」映し出されるのである。(1993年版、с.63)
※比喩的にいえば、人間は、道具によって土地を耕し、同時に、他者と交わることばを自分に向けることによって、自己を耕している。
しかし、このような人間発達の歴史的見方だけでは足りないものがあった。それを大まかに言えば、人間にかかわる種々の実践を具体的に導くには、歴史的見方だけでは弱い、というものであろう。以後、2回半の講義では、ヴィゴツキーがその後の4年余りに、歴史的見方と関連しつつ、人間発達に対する新しい観点を次々と提起していったことを、紹介することにしよう。
※この弱さとも関連するが、人間による「自然の支配」はすでに古めかしい考えであり、この楽観的な考えからは「地球温暖化」の原因や対策は導き出せない。「自然の支配」ではなく「自然との共生」が、もとめられる考え方であり、この視点からマルクスの再評価も進められている。「自然の支配」と対(つい)をなす形で述べられている(ことばなどによる)「自己の支配」も再考すべきであろう。これについては、後に述べてみたい。
「現実の人間関係と個人内の機能」
※人間発達に対する新しい観点を練りあげる場合、ヴィゴツキーがたえず行っていることは、すくなくとも、次のような考察である。
①その観点がどのような人間的・心理学的事実を念頭においているのか(他者および自分の観察・実験による事実を含む)、
②そうした事実に対する心理学的な理論にはどのようなものがあるのか、
③それには、どのような哲学的な理論が対応しているのか。
人間発達の歴史的見方のすぐ近くにある考え方として、まず取り上げたいのは、人間と他者との関係、および、人間の内側の問題、である。
I インター【個人間】とイントラ【個人内】
【低次心理機能と高次心理機能】
(思考、情動、意志などの)それぞれの心理機能について、低次心理機能と高次心理機能とを区別して捉えること(たとえば思考における低次機能と高次機能を捉えること)は、ヴィゴツキーの独創的な見方である。具体的にはどういうことか。
・たとえば、「あそこで男の人が長い棒を振り回している」という見方は眼に見えたままの見方であるが、同じ場面を「あそこで庭師が掃除している」と意味をとらえる見方もある(これは失認症患者についてゴールドシュテインが報告した事例である)。前者は低次機能をあらわし、後者は高次機能を表している。
・ゲシュタルト心理学のマックス・ヴェルトハイマー(1880-1943年)は、ヨーロッパの言語を学んだ半未開人が『白人が6匹の熊を殺した」という句を翻訳する練習をどのように拒んだのかについて、話している。「白人は6匹の熊を殺すことができない、だから、そのような表現そのものもあり得ないであろう」(『猿・未開人・子ども』1993年版、p.98)。これが示しているのは、低次な見方である。私たちが、ごく普通に、このような練習をすることができるのであり、「想像する」「仮定する」ということがあたりまえのようになっている。熊の事例と比べれば、高次な見方なのである。
言語に焦点を当てて捉えるなら、「庭師」の事例は言語機能の減退のなかで生じたものであり、その逆に、「熊」の事例は言語機能の発達途上で現れている。
文化的発達が補助手段を用いる点で自然的発達とは異なることは上述したが、それと同じように、高次心理機能は、言語と深く関わっている。
◯高次心理機能の起源(どこから生まれてくるのか)に関して――ヴィゴツキーは次のように述べている。「高次心理諸機能のあいだの関係は、以前には、人々のあいだの現実的関係であった。人々が私に関係するように、私は自己に関係する。熟慮——口論(ボールドウィン、ピアジェ);思考——ことば(自己との会話)」(1929年ノート「人間の具体心理学」、p.1021、邦訳『ヴィゴツキー心理学論集』p.240)。
これを解説しておこう。まず、人々のあいだの現実的関係があった(心理間機能、あるいは、個人間の機能)。それが個人の中に移行した(心理内機能、あるいは、個人内機能)。これが高次心理機能である。具体的な事例によって考えてみると、人々が口論している、これを自分のなかで行うようになる、つまり、口論→熟慮である。ことばと思考も同様であり、人々の対話(他者との対話)→自己との対話→思考。これ以外にも、多くの高次心理機能はこのように解釈できる(たとえば意志など)。
※対話と思考(熟慮)の関係を解りやすく言うなら、次のようになる。——Aさんと私が話し合っている。すぐには返答できないような問題が出てきた。そこで話しが打ち切られた。私はその問題が気になって、自分のなかでAさんとの対話を再現し、それを更に先に進めた(内的対話そして熟慮)。このときの熟慮(思考)は、自分のなかでAさんと私の対話が続いているかのようである。このように、最初は現実に行われた2人の関係(私と他者との関係)が、次には私自身の内部に入り込む。これが内的対話であり、思考であり、熟慮である。
II 「文化的発達」の一般法則
【指示的身ぶり(指差し)について】
類人猿の行動が視覚に大きく左右されていることや、そのコミュニケーションにおいて身ぶりが一定の役割を果たしていることは、ケーラーがチンパンジーを相手に実験をおこなった100年あまり前にすでにあきらかであった。現代では、その視覚の強さを利用してチンパンジーに記号を理解させようとしたり(日本)、ゴリラに手話を教えてコミュニケーションを図ったりしている(アメリカ)。つまり、身ぶりが言語やコミュニケーションに使用されるのは、類人猿にも人間の子どもにも(おそらくは未開人にも)共通した現象である。
ところで、ヴィゴツキーは、初語〔対象のある音〕の先駆けとして指示的身ぶり(指差し)に着目し、それを分析することによって、発達の一般法則を引き出している。
指示的身ぶりは、次のような3つの段階を通って、成立する。
①対象に向けられているが不首尾に終わった把握の(モノをつかもうとする)動作
②母親によってなされる、その動作を指示と理解する意味づけ(たとえば、把握しようとする手の先を見て「あっ、◯◯が欲しいのね」と言って、その対象を取ってやる)
③子どもは指示的身ぶり(指差し)を行うようになる
という3つの順次的段階を通過して成立する。
①のモメントは、一方ではモノをつかむという大人の模倣でもあるが、他方では子ども自身の欲求(そのモノを触ってみたい、間近に見たい)にもとづいており、自然的要素が強くうかがわれる。
②のモメントは、子どもの行為の、大人による意味づけである(子どもと大人との共同的モメント)。
③のモメントは、すでに子ども自身による指示的身ぶり(指差し)である。
これらを全体として見れば、「あっ、あっ」と言って、モノを指差せば、そのモノが自分のところに届けられるとか、大人のことばが返ってきたりするとかの、経験を子どもはする。
②のモメントは意味形成に直接的にかかわる点であるが、指差しが即自的には欲求を満たそうとする行為から始まっている点(①のモメント)、理解語(語について発音はできないが理解はできる状態を指している)も、指差しも、行為によって応えている点に、着目しておきたい。このような行為はことばの先行者である。
②と③のモメントが「共同注意フレーム」(子どもが大人の注意を促し、同時に、大人が子どもの注意を方向づける)のなかで生じている。
【「即自的(それそのままの)」→「対他的(他者に対しての)」→「対自的(自己に対しての)」】
ヴィゴツキーは上記の①〜③を「即自的」段階、「対他的」段階、「対自的」段階というヘーゲルの概念を用いて整理し、その3段階の通過を「文化的発達の一般法則」と考えた。上で述べた、「インター(心理間または個人間)とイントラ(心理内または個人内)」は、②③の段階、つまり「対他的」と「対自的」の段階を表している。
III 「インター」「イントラ」そして脳の機能
◯ヴィゴツキーの理論をもっぱら文化・歴史理論あるいは文化・歴史心理学と見なす捉え方からは、「インターとイントラ」は以上で終わってしまう。だが、注意深くヴィゴツキーを読んでみると、1929年ノート「人間の具体心理学」と1930年論文「心理システムについて」には、「インターとイントラ」の関係は「脳の機能」を絡めて論じられていることに、気づくのである。たとえば、
「私が述べる・どの〔心理〕システムも、3つの段階を通過している。最初は、心理間〔インター・サイコロジカル〕の段階——私が指図し、あなたが実行する——、その後に、特別心理〔エクストラ・サイコロジカル〕の段階―—私は自分で自分に語るようになる―—、さらにその後に、心理内〔イントラ・サイコロジカル〕の段階―—外側から刺激される脳の2つの点は1つのシステムのなかで作用する傾向を持ち、皮質内の1点に転化する―—。」(「心理システムについて」1930年、ロシア語版6巻本著作集第1巻、p.130、邦訳『ヴィゴツキー心理学論集』、p.35)
これを、ことばの使用に即して解りやすくすると、【インター・サイコロジカルの段階】は他者との対話、【エクストラ・サイコロジカルの段階】は独り言、【イントラ・サイコロジカルの段階】は内言〔独り言が成長して聞こえなくなったもの〕に該当する。そして、この【イントラ・サイコロジカルの段階】には、「外側から刺激される脳の2つの点は1つのシステムのなかで作用する傾向を持ち、皮質内の1点に転化する」と書かれている。最初の「2つの点」は他者の声と自己の声(独り言の)であり、それが1つのシステムのなかで働いて、大脳皮質の「1点」(おそらく内言を表している)に転化する、と述べているようである。
◯ここでは、「自然的なものと文化・歴史的なものとの関係」が「他者、自己、脳の関係」として述べられている。つまり、自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」はある時期で終わりというわけではなく、どこまでも続いていくことになる。
※ところで、指示的身ぶりの事例にもどって説明するならば、②③だけであれば「文化的発達の一般的法則」と呼んでもよいが、①〜③となれば、むしろ「人間発達の一般法則」と呼ぶべきであろう。なぜなら、①はこの場合、子どもが「あれは何だ」「あれを食べたい」などの即自的で自然的な欲求にもとづく行為であり、子どものなかに生じるものである。つまり、①と②③とは「自然的なもの」と「文化・歴史的なもの」とが「せめぎ合う」ような関係であり、次回、次々回に述べる予定の「心理システム」「発達と崩壊」につながっていく。この意味で、上記の3段階は「文化的発達」ではなく「人間発達」または「発達」の一般法則と呼ぶのが相応しいであろう。しかも、①がなければ、②も③もない、という点に留意すべきである。
自然的発達と文化的発達の移行の間に存在する「断絶」とそれに必要な「飛躍」の支えになるのが「教育」であるというのはとても理解できた
返信削除挙げられている具体例からもわかるように、考え方や捉え方の変化や想像する力を身につける補助をすることが大事だと思いました。
また、文化的発達には法則や順序が存在し、一つ目が欠如するとその後が続かないことを十分理解する必要があると感じました