〔2021/05/17〕第5回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて④ 「高次機能の発達と崩壊」
〔2021/05/17〕第5回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて④ 「高次機能の発達と崩壊」
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なお内容的には、
①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、
②それについての従来の自分の考え、
③自分にとっての「新しさ」の理由、
を含んでいるのが望ましい。
また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。
《前回の授業コメントより》
*他者との対話と自己との対話
私が新たに発見した事実は、子どもの自己意識の形成はこれまで行われてきた他者との対話が、自己との対話として継続されることによって行われていくという事である。この事実を踏まえると、成長過程で独り言が徐々に減っていき、内言が成長するという事にも納得することが出来る。
私はこれまで、自己との対話は成長と共に、自然と増えていくものだと考えていた。しかしそれは、他者との関わりがあってこそ成立するものであると、今回の講義で学ぶことが出来た。他者との関わりによって、言葉の数が増え、自分にとっての外の世界を認識していくという過程は、非常に興味深いものであるように感じた。以上のことが、自分にとっての新しさの理由である。
*2歳児に見られる「状況拘束性」について
①今回の講義で私は視覚から得たものによって子供の行為が左右されているということ、2歳児における状況拘束性というものを新しく発見しました。
②1歳児の感覚は言葉の習得に関連して知識へと変化し、見たままの色や形や大きさ、モノの配置をそのままで捉えて目に見えたものや聞いた言葉を何でも真似したりするという点で確かに考えてみれば大人の行動やしている事を単純に真似する模倣的な行為が多いなと思い当たる節はありましたが2歳児においての視覚が運動を引き起こすものである状況拘束性というものがあるという事やそのため、視覚と状況は一体化しているということを新しく知り驚きました。
③更に状況拘束性はチンパンジーにも見られ視覚の奴隷とも特徴づけられいてることやそれに加えその似たことが2歳児にも生じていることを知り、やはり猿人類と人間は共通しているんだなと改めて感じました。そしてこの視覚から得たものによって子どもの行為は左右されているんだと言うことに改めて気付かされました。以上が私が新しいと感じた理由です。
*内言の成長の時期について
今回の授業で、6歳代に独り言が大きく減っていくなかで、独り言と同じ機能(自己のためのことば)をもつ内言が成長してくるということを新たに発見し、学んだ。この内言は、最初は認識されないが13歳の危機を越えると、自己意識の形成につれて意識されるようになる。
ここでは内言は6歳代に成長してくると記されているが、私は2~3歳頃から内言は成長しているのではないかと考えていた。2~3歳頃の子どもでも、口には出さずに心の中で思っている言葉があるのではないかと感じていた。
しかし今回の授業で、誕生から続いている他者との会話・対話は相手の言葉・自分の言葉を意識するにつれて、言葉は内言として蓄積されていくことを知った。そして私は言葉の意味もあまり理解できていない2~3歳頃の子どもには内言をもつことが難しいということを考えるようになった。なので、今回新たに学んだ事実は私自身にとって新たな発見となったのである。
*心理システムの発達的変化
①新たに発見した事実とその考え方
私が新たに発見した事実は、心理システムには、13歳頃という自己意識の成立を基準として、その以前と以後で相当な違いが生まれてくるということです。0歳児から段階的に「ことば」や「知覚」「感覚」「記憶」などが変化していくことで、新しいシステムが固定的ではなく、発達的に形成されていくという考え方はとても興味深かったです。
②それについての従来の自分の考え
これまで私は、心理システムというような概念は、一歳児ごろの自我の芽生えで形成され、その後はどんどん成長するのみであると考えていました。思春期の頃に「反抗期」のような心理システムの変化を迎えることはあるものの、それは一種の通過点であり、そのあとは右上がりに進み続けるだけのものであると考えていました。
③自分にとっての「新しさ」の理由
よって、発達が13歳という明確な年齢の前後で大きく変化し、掘り崩しを繰り返しながら発達的に形成されていくということは、これまでの自身の考えでは至らない、より詳細な部分を突いていた為「新しく」感じられました。
*心理システムと3種類の思考
①私が今回新たに発見した事実は、心理機能には3つのシステムがあるということである。3つのシステムとは「事実的思考」(思考→想像→情動)・「自閉的思考」(想像→情動→思考)・「創造的思考」(想像→思考→情動)のことであり、''思考''・''想像''・''情動''がそれぞれ組み合わさって構成されるものである。
②私はそれまで「心理機能」は1種類しかないものだと考えていた。なぜなら「心理機能」とは何か物事を見たり聴いたりすることにより、自動的に何らかの考えに至るという単純な回路だと思っていたからである。
③だが、「心理機能」には「事実的思考」・「自閉的思考」・「創造的思考」の3つのシステムがあるということを知った。なので、今回発見した事実は自分の中で新しいものとなった。
*情動と脳の二重構造
私は新たに情動について発見することができました。情動は、喜び・恐怖など生命の維持に直接にかかわるものであり、情動はそのように皮質下中枢によってコントロールされるとともに、新しい脳によってもコントロールされるとのことでした。
いくつかの脳によってコントロールされるということに驚きました。そして、情動とは脳によって動かされるものだと知りました。
私は脳の一つの場所から信号を受けているのではなく、情動は二重構造でのコントロールで動かされると学びました。これから生活していく中で脳について意識しながら生活したいと感じました。
〔補足しますと、自分のなかでいま沸き起こっている情動を認識する、というのが脳の二重構造にもとづく情動への対応となるでしょう。〕
*質問
若い子のほうが新しい機械(スマートフォンや様々な機能の付いた家電など)に強いというのはそれらに合わせて記憶のシステムが更新されているのでしょうか?
〔スマホなどの発達によって一面では「記憶する」という課題から「解放」される面は確かにでてくるでしょう。ところが、外国語を使用するための記憶にはそのような「解放」はないように思います。言語のような生存に深く関わる分野での記憶とそこから少し離れた記憶とでは違いがあるように思われます。〕
小タイトル【自然的記憶と論理的(意味的)記憶】より、「心理システムは固定的ではなく発達的なのである」と説明されていましたが、この発達は大人より子どもの頃の方が著しいと考えられるものですか?
〔講義メモにも書きましたが、自己意識(たとえば、自分の思考や感情などの心理機能を認識すること)によって、心理システムははるいかに柔軟で自由なものになると考えられるので、自己意識成立以前と以後とでは、心理システムの固定化や発達のあり方は大きくことなってきます。したがって、大人の方が心理システムの発達の可能性は高いと見るべきでしょう。自分の心理機能の認識や自己の内省があれば、という条件があるのですが。〕
状況拘束性について、人間の赤ちゃんにおいては視覚(自ら興味を惹かれる道具を見つけた)が運動を引き起こすというイメージ通りでしたが、チンパンジーにおいては視覚(人間が道具を使っている姿に興味を持った)が運動を引き起こしているのだと考えていました。人間と全く関わりを持たないチンパンジーも道具に関心を持ち運動を引き起こされるのでしょうか。
〔野生のチンパンジーの観察では、木の実を石で割るというような石の使い方が見られるようです。〕
13歳の危機を迎えた後、自己の意識は他者を理解することを伴っているというのは、内なる言葉で相手の意思を汲み取ろうとしてるということですか?
〔より一般的に言えば、人間は自己を理解するまえに他者を理解しています。自己を理解するのは、それよりも遅れて可能になります。これは発生的な順序からの説明となりますが、13歳の危機以降の時期になると、他者との対話が自己の理解に大きく寄与してきます。話し相手が言っていることは自分の考えとは違う。なぜ、相手はそのように考えるのだろうか。また、自分はそれとは違う考え方を何故しているのだろうか、という過程、つまり、対話と内省を通して、他者理解と自己理解が進んでいくのだと思われます。〕
《講義メモ》
はじめに
心理機能とくに高次心理機能(低次心理機能が言語等に媒介されて高次化したもの)は発達するだけでなく後退・崩壊することがある、ということに注目したのは、ヴィゴツキーであった。たとえば、統合失調症においては成立しつつあった「概念的思考」が崩壊する。失語症においては、たとえば、すでに獲得していた言語が後退・崩壊するなかで、想像力が減退する、等々。
さらに、機能の後退・崩壊といっても、たんに1つの機能が後退・崩壊するというよりは、その機能と他の諸機能の連関も後退・崩壊していく、つまり、心理システムとして後退・崩壊していくのではないか。ちょうど、発達は1つの心理機能の発達ではなく、その機能と他の諸機能との連関である心理システムの発達として現れるが、このことと、後退・崩壊の場合も同様である。もちろん、違いは、上昇し発達するという意味での「上への動き」と、後退し崩壊すると言う意味での「下への動き」との、相違である。
以上のことを、具体的に見ていこう。
I 発達と崩壊
ヴィゴツキーの発達理論のうちで、もっとも独創性だと思われるのは、その発達理論が諸機能の発達とその逆の諸機能の崩壊とを1つに、統一的に、位置づけたことである。学問分野として考えれば、(発達を扱う)発達心理学と(崩壊を扱う)精神病理学とを統合的に理解したことにある。
両者はどのように統合されているのか? ヴィゴツキーの考えによれば、発達はその道すじを下から上へと進んでいくのに対して、精神病理等にもとづく崩壊はその同じ道すじを上から下へと移動していく、と。
彼は、とくに、発達と崩壊は高次心理機能において明瞭に現れる考えて、その典型的な事例として、①少年・少女期の発達と統合失調症による崩壊、②失語症と心理機能、を取り上げたのである。
A 少年・少女期と統合失調症
13歳の危機と少年・少女期〔13歳の危機と17歳の危機とのあいだの時期〕は、健常な発達の1つの特徴であり段階である。この2つはもちろんいくらかの違いがある。
13歳の危機とは、13歳頃は「第2反抗期」と呼ばれることもあるように、子どもが激変する時期である。喩えて言えば、「人間の第2の誕生」(ルソー)の産みの苦しみのようなものであろう。この危機において中心的に形成されるものは、ヴィゴツキーによれば、「分裂機能の成熟」である。典型的には私の意識のなかでの自己と他者との分裂過程であろう。分裂機能とはイメージとしては1つのものが2つになる細胞分裂を思わせ、より論理的には、「区別の機能」と捉えることができる。
そうした分裂機能がある程度成熟することによって、少年・少女期が切り拓かれる。この時期は「内省」が始まる時期であり、自己意識が形成され、概念的思考が可能になる時期である。この自己意識は、(a)自己を認識(意識)することに尽きるわけではない。(a)自己の認識(意識)は(b)他者の認識、私にとっての他者という理解、と同時に生じる。そして、やがて(c)私にとっての世界を認識するようになる。大まかに言えば、これら(a)(b)(c)が「自己意識」の具体的内容である。
ところで、このような自己意識がなぜ重要であるのか? 周りの他者、遠くにいる他者、会ったこともない他者を深く知りたいと思ったり、さらには、世界をより深く知りたいと思ったりすることに、自己意識は不可欠である。自分にとっての〇〇という見方が重要であるのは、たとえば、恋について考えてみればよくわかる。恋する人は、自分にとって特別な人である相手について、深く知りたいと思う。世界についても同様ではないだろうか。この世界は自分にとって意味のある世界だと思えたとき、私たちは世界をより深く知ろうとする。そこでは、世界について学んだことはたんなる知識にとどまらず、その人の内面的なものとなる。
以上が少年・少女期における主要な発達——自己意識の形成と概念的思考の発達であるとすれば、自己と他者との境目が曖昧になる統合失調症は、13歳の危機そして少年・少女期に積み上げてきた発達が崩壊していくことを示している。
この発達と崩壊を簡単にまとめておこう。
①外面・内面の区別はよくなされるが、自己意識の形成にとって重要なことは、その内面が2種類に分化すること、つまり、「第1の内なる声」と「第2の内なる声」とに分化すること、
②比喩的に言えば、第2の内なる声のイメージは、シェイクスピアが描いたハムレットの自問の台詞——「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」のTo be or not to beのnot to beにあたる。
③その「第2の声」は他者の声が自分のなかで変形されたものであること、
④「第2の声」の存在が、第1の声との「内的対話」を可能にし、しかも、その「内的対話」は他者との対話が独特な形で変形されて内部に移行したものであること、さらに、
⑤「内的な第2の声」は後にワロンが述べた「第2の自我」等々に近いこと、
⑥現実の人々の関係が私の内部に移行したものとしての「高次心理機能」という規定(ヴィゴツキー)は、他者との対話から「内的対話」を導きだしうること、
⑦さらに、ヴィゴツキーの言う13歳の危機における「分裂機能の成熟」(わかりやすく言えば、区別の機能の確立過程)によって、他者が自分の一部として変形され自己化していたものが、統合失調症などによって、「分裂機能」が不十分となり、概念の崩壊とあいまって、もともとの「現実の人々の関係」を担った他者が「自立化」し、幻覚化すること。
統合失調症について。13歳の危機は、自己意識が成立しはじめる時期であり、そこでは、自己と他者は違うということ、さらに自己の意見と他者の意見は違うということ、そして、世界に対する自己自身の見解を形成しはじめる。自己が周りと多かれ少なかれくっついていたそれ以前の状態から自己のなかに「分裂的傾向」が生じる。そこで自己がうまく形成されないとき、統合失調症的となる。ヴィゴツキーは、統合失調症の本質は形成されはじめた概念的思考の崩壊にある、と見なした。概念的思考がそれまでに支配的であった複合的思考に後戻りすることが特徴である、と考えたのである。そこから、統合失調症を持つ人の自己の独特なあり方、他者との境目の曖昧化、他者の幻覚化などが生じる、と考えられる。いわば、概念的思考を中心とした心理システムの全面にわたる崩壊が起こってくるのである。
なお、統合失調症についての基礎的な考え方と具体的事例については、村井俊哉『統合失調症』岩波新書、2019年が参考になる。
B 失語症と心理機能の減退
失語症は脳の損傷によって言語機能が減退する疾病である。第1次世界大戦後のヨーロッパで負傷した人々の一部(銃弾や爆発による脳の損傷による)に見られたのであるが、現代では、脳内出血などの後遺症として見られるようになった。
【言語の発達と言語の崩壊】
〇ヤーコブソンの問題提起—言語学(とくに音韻論)の立場から(「幼児言語の音法則と、その一般音韻論における位置」1939年執筆、公刊は1949年、「幼児言語、失語症および一般音法則」1939〜1941年に執筆、1941年公刊、ともに『失語症と言語学』服部四郎監訳、岩波書店、1976年に収録)
ヤーコブソンは幼児の発声・音韻の発達は世界諸言語に共通する母音・子音がまず形成され、その上に子どもの母語に固有な音声・音韻が形成される(例えばフランス語における鼻母音、その他の言語を含めて流音rとlなど)、と考え、失語症における言語崩壊は、その逆に、母語に固有な音韻から始まり、下の層に至り、もっとも重篤な事例では、「一音素、一語、一文」となる(これは幼児の場合の初語に該当する)。また、失語症患者の言語の回復過程は、幼児の言語発達を高速フィルムで見ているかのようである。こうして、幼児言語と失語症言語の双方がともに、音声発達の同じ成層(層状)構造を示している。
なお、ヤーコブソンは、音素はそれ自体では意味をもたないが、ことばの意味を表す言語音(価値音)の弁別的機能をもつ、として、音声・音韻を位置づけている。
〇成層(層状)構造としての言語(音韻)発達
服部四郎による解説「ロマーン・ヤーコブソン教授について」(上記『失語症と言語学』所収、p.179)より—「ヤーコブソンに従えば、幼児が音素を習得する順序は、どんな言語を習得する場合でも、共通でかつ一定している。たとえば母音ではa,i,u, 子音ではp,m,t,nが大体この順序で習得されるが、これらの母音や子音は、どの言語でも音素として持っている。一方、その言語に特有の音は、幼児も一番おくれて習得するという。さらに興味があるのは、失語症患者が一番先に失う音は、幼児が一番遅れて習得する音であり、幼児が一番先に習得する音は失語症患者においても一番後まで保存されるという。このようにして、幼児の言語音習得の研究や失語症の研究が、言語の音韻体系を支配する法則の研究に役立つことを明らかにした。」
ヤーコブソンは幼児言語と失語症患者の言語は「鏡の像のような関係」であり、層をなして発達し、層に沿って崩壊すると考えたのである。
◯失語症のなかでももっとも重篤な「全失語」の事例を見てみると、まるで幼児の1語文とよく似た現象があらわれている。
以下、全失語の事例をあげつつ、それが類似する幼児の初語(1語文)と対照しておこう。全失語の事例は次のものである(波多野和夫他『言語聴覚士のための失語症学』2002年、pp.98-99)。
《症例M。右利き男性。64歳時に脳梗塞が発症し、右完全麻痺と再帰性発話を伴う全失語が発症した。発症3年7か月から約3年間観察された。聴覚的理解には中程度の障害がある。復唱も呼称も音読も、発話する限りはすべて「マタマタ……」を発する。再帰性発話〔ジャクソンによる命名。「偶発性発話」と対照。―神谷〕の最小単位は「マタ」で、これをほとんどつねに3回以上連続的に繰り返し発話する。場合によっては、「マタマタマタマタマタマタ」と6回以上連続することもある。廊下でST〔言語聴覚士―神谷〕を見つけると、遠くから左手を振り「マタマタ……」と明るく挨拶をする。病棟では「マタマタ」さんと呼ばれ、本名を知っている人はほとんどいない。病院生活に十分に適応している。
この患者は「マタマタ」にさまざまなプロソディ〔この場合はおそらくアクセント・イントネーション―神谷〕を付加して豊かな感情を表現する。これに指さしや身振り、感情変化をあわせて、“yes / no”、受容・拒否、好き嫌いを中心とした自己の意思をかなりの程度表現しているように見える。しかしたとえば「マタマタマタマタ」と4回の繰り返しを刺激語として与えて復唱させようとしても、適当に「マタマタ」と繰り返すのみである。また、「マタマタ」2回を“yes”、「マタ」1回を“no”というように取り決めて、これをコミュニケーションに役立てる試みをいくら行っても、ただ適当に「マタマタ」を繰り返すのみで成功しない。つまり、「マタマタ」発話を有意味な情報として命題的に使用することが不可能である。
この患者の発話は経過としてはほとんど変化しなかった。この再帰性発話は完全に常同的ではない。プロソディ変化は豊富で、「マダマダ」という音韻上の変形が多少見られたが、「語彙」レベルの変化はなかった。》
この事例を読むと幼児の初語および1語文を思い出させる。この患者の場合、「マタマタ」の音のまわりに「さまざまなプロソディを付加して豊かな感情を表現する。これに指さしや身振り、感情変化をあわせて、“yes / no”、受容・拒否、好き嫌いを中心とした自己の意思をかなりの程度表現しているように見える」。つまり「自己の意思」を表現する自然的形式は失われていない。このことは、幼児の初語を理解する鍵を与えてくれると考えられる。幼児の初語を捉えるとき、音とともに、そのような自然的形式を見逃すなら、初語を真に理解したことにはならないのである。それと同時に、幼児の初語は、この患者の発する音を理解することに導く。「マタマタ」は初語における「意味の般化」に似たものはあると思われるが、「意味の分化」に欠けている。このことは、再び、初語の理解を深めるモメントになる。幼児が、社会的・言語的環境のなかで、「意味の分化」を実現するには、いま使用している「意味の般化」を狭めうる他の音と意味を環境のなかから選び出し、それを「創造」する力を必要とする。それを「自然的なもの」に数え上げることは、理にかなっているであろう。
【失語症と心理機能の後退・崩壊】
他方、ヴィゴツキーは、ことばが崩れるなかで、心理機能の崩れが生じることを考察している。
失語症患者の想像力 土砂降りの様子を窓から眺めながら「今日は良い天気ですね」と言って下さいと患者に求めると、その患者は、「こんなに土砂降りなのに天気が良いはずはない」と抗議したという事例がある。ヴィゴツキーは、ことばの機能が低下すると想像力も低下する、と述べ、まるで想像力がまだ生まれる前の2歳児において典型的に見られる「状況拘束性(場面的束縛)」—いま見ている場面に束縛されていること—が生じているかのようである、と述べている。
多言語使用者 失語症となると今使っている言語が崩壊するが、以前に使っていた他の言語が現れてくる。これも、独特の成層(層状)構造があると考えられる。
ある失語症患者の「錯語」(家族への取材から) リハビリテーションの過程で、「消しゴム」の絵を見て、それを「鉛筆」と呼んでしまう。本人は「鉛筆ではない」と分かっているのに。それをどのように解釈するのか? 参照:ヴィゴツキー による「花」と「バラ」の語の解釈。子どもは普通、「バラ」という語よりも「花」という語を先に覚える。もし、「バラ」を先に覚えたとしても、この語は「花」という意味で使われている。 より一般的な語から覚える。上記の失語症の人の場合、「鉛筆」が「消しゴム」をも含む一般的な語〔「文房具」の語〕を表していると考えられる。
II 発達と崩壊の地層理論
「子どものあらゆる文化的行動〔高次機能〕はその原始的形式の上に成長しているが、この成長は、しばしば闘争、古い形式の駆逐、ときにはその形式の完全な破壊、ときには様々な発生的時期の『地質学的』成層—そこでは文化的人間の行動は地表に似ている—を意味している。私たちの脳もそのような『地質学的成層』によって構成されていることを想起しておこう。そうした発達の事例はきわめて多く見出されてきた。」(ヴィゴツキー『高次心理機能の発達史』第13章、1931年——邦訳『文化的−歴史的精神発達の理論』第11章「高次の行動形式の教育」)
上記の一文のなかに、人間発達の地層理論が凝縮して表現されている。もちろん、これは1つの比喩であるが、その見事さは、これまで述べてきた発達に対する観点をすべて含みうることであろう。
①現在の私を地表に擬えたなら、私の歴史(個人史〔生育史〕・人類史・生物進化)はいくつもの層をなしている。〔ここでは問題を簡略にするために個人史に限定して述べよう〕
②そうした層は基本的には、自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」によって構成されている。〔ここで言う「自然的なもの」とは生得的なものを含みつつも、それよりも広く、習得の自然発生性とか習慣とかも含まれている〕
③高次心理機能が発達する層になると、その形成のメカニズムとしては、現実の人間の間の関係が自分のなかで担われることが明瞭となり〔たとえば、外的対話から内的対話へ。より広く言えば、インターとイントラ〕、それが脳の階層構造に繋がっている。
④各層は心理システムによって構成されている。心理システムとは中心的な心理機能の影響下に他の心理諸機能がシステム化したものであり、しかも、各年齢期によってそのシステムは変化していく。たとえば、3歳未満児における「知覚」、学齢期における「思考」、少年・少女期における「概念形成」というように、各年齢期の中心的な心理機能は変わっていく。それとともに、1、3、7、13、17歳の危機において、それまで形成されてきた心理システムが破壊され、新しいシステムが構築されはじめる。
⑤地層には地殻変動によって断層ができるように、地層の堆積に擬えることのできる発達は、同時に、崩壊を孕んでいる。それは、個々の機能の崩壊というよりはその時期の心理システムの崩壊でもある。〔少年・少女期の自己意識の形成・概念的思考の発達、統合失調症における概念の崩壊を軸とした自他の区別の崩壊〕。高次心理機能の崩壊は、精神疾患に見られることであるが、高齢者の理解においても意味があるかも知れない。〔もの忘れ、独り言の増加、一時的な幻影、さらには認知症〕
この他にも、人間発達を理解するために、類人猿の研究に依拠すること(動物学、比較心理学)、また、未開人の研究と比較すること(文化人類学など)も必要となる。この点でも、ヴィゴツキーは、『行動の歴史に関する研究——猿・未開人・子ども』1930年という著作があるように、先駆的であった。
III 自然的発達と文化的発達の教育学
「高次心理機能の発達と崩壊」は、個別の心理機能の崩壊ではなく地層のような層をなした「心理システム」の発達と崩壊であり、その底流には「自然的なものと文化・歴史的なものとのせめぎ合い」がある。
A 自然的発達と文化的発達との「断絶」を補うものとしての教育
(ヴィゴツキー『高次心理機能の発達史』第13章、1931年——邦訳『文化的−歴史的精神発達の理論』第11章「高次の行動形式の教育」から)
子どもの発達において、「自然的なもの」と「文化・歴史的なもの」は調和するというよりは、むしろ、争いあうものであり、その意味では、「せめぎ合い」と表現するのが適当である、と考えて、前回も述べてきた。
①自然主義的な発達観と教育、②文化主義的な発達観と教育、そして、③両者を組み合わせたかのような輻輳的発達、というように3つに大別したが、③はやや複雑である。ある時期までは自然主義、ある時期を過ぎると文化主義、という形で論じたり〔たとえば、幼児や小学校低学年の発達と教育は自然主義的に論じ、小学校中学年以上は文化主義的に論じる、という具合に〕、同じことだが、自然主義が続いていくと文化主義に変る、という考え方もある。
ヴィゴツキーの考え方の特徴は、自然的発達と文化的発達とはスムーズに移行していくものではなく「断絶」や「闘争」が両者の特徴なのであり、この「断絶」を越えさせるものが「教育」なのである、と彼は捉えた。たとえば、ことばや算数を例にとれば、これらの教育が自然的発達にいかに依拠しているかは語られる。しかし、その逆のこと、ことばの教育(たとえば、しっかりした大人のことばの習得)や算数(たとえば、簡単な暗算の習得)が自然的発達をいかに改造するのかは、あまり語られない。
ことばや計算の面でのこの「断絶」がいかに大きいかを考えてみよう。
B 小学校低学年の算数の場合
小学1年生1学期の算数教育の目標は、おおよそ、①ひと桁の数が読める、②ひと桁の数が書ける、③ひと桁の足し算ができる、④ひと桁の引き算ができる、というようなものである。この③④は思いの外、小学1年生には難しいものである。
先生はたいてい「指を使わずに頭のなかで計算しましょう」と指示する。子どもが頼るのはまず自分の指であるからだ〔自然的算数〕。次に子どもが頼るのは時計の文字盤である。順に数字が書いてあるので、これを使えば、容易に計算ができる。これもダメとなれば、暗算をせざるを得ない。ひと桁の足し算・引き算を暗算で行うことは大人には難しいことではない。しかし、子どもにとって眼に見えるものを手がかりにできないことは、どれほど難しいことか。
ついでに言うと、「指折りして数えること」と「アラビア数字」との中間にあるのは「ローマ数字」である。ローマ数字はおおむね指と手とに対応しており、1つの数字(たとえばVIII)のなかに5と3がそのまま含まれているので、計算しやすいのである。しかし、大きな数を表現するのはとても不便である。
C 幼児のことばの場合
母語の文法のおおむねの習得(2歳代)、話しことばの体系の一応の獲得(3歳代)を経て、4、5歳児ともなると、独特な「造語」が聞かれるようになる。たとえば、「あおばい」(白いバイクが「しろばい」だから、青いバイクは「あおばい」)、「ピンクい花」(「赤い花」「白い花」というように色名+い+花を応用すると「ピンクい花」)という「造語」がある。
ある園の保育実践のなかで耳にした造語に「よけとび」があった(「よけとび」とはツバメが林のなかの木を巧みに避けながら飛ぶさまを示している)。この場合、保育者はその造語を受け入れ、それを積極的に使用した。もちろん、子どもたちもそうであり、そのことで話し合いや身ぶりでのツバメの表現は面白く展開された。
ここに、ヴィゴツキーが特徴づけた保育の基本的性格がよく現れている。それは、「自然発生的―反応的」な教育や学習というものであり、わたしなりの表現で言えば、「保育は保育者が子どもを導くものだが、子どもに導かれることがなければ、導いたことにならない」というものであろう。そこにこの時期の自然的発達と文化的発達との「断絶」に対する対応が示されているように思われる。
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