〔2021/06/28〕第11回 社会的実践と個人―対話について② 「対話の原理」
〔2021/06/28〕第11回 社会的実践と個人―対話について② 「対話の原理」
《お知らせ》
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なお内容的には、
①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、
②それについての従来の自分の考え、
③自分にとっての「新しさ」の理由、
を含んでいるのが望ましい。
また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。
《前回の授業コメントより》
*発話にともなう表情・身ぶりと「本能的志向」
①今回の授業で新たに発見した事実は、表情や身ぶりが対話につきものであるのは、それが「本能的志向」であるからだということです。ヤクビンスキーによる説明は幼児の事例にもとづいており、「幼児は自分で発話をするようになる前に、話し手の顔を見ながらことばを聞いている。会話するときにお互いを見ようとするこの本能的志向は、こうして、理解のあらゆる可能性を用いるのに役立つようになった」としています。
②今回の講義メモを読むまでは、表情は自分の感情を表すためや意思を伝えるため、また身ぶりは相手に自分の思っていることや伝えたいことを伝わりやすくするため、行なっているのだと考えていました。
③しかし、表情や身ぶりが対話につきものであるのは、それが「本能的志向」であるからだということを知り、理解しました。これが私にとっての「新しさ」の理由です。
*語と知覚などの統覚
私が新たに発見した事実は、対話は語だけでなく、表情、身ぶり、イントネーションも要素に含まれているということである。これらは「感覚」と「ことば」の中間にあるものであり、ことばを理解しやすくしてくれる役割がある。そのような役割を果たすのは、知覚の統一的全体(統覚)によって準備されているという考え方である。私は、対話というのは語のやり取り、表情、身ぶりといった視覚で成り立っていると思っていた。しかし、視覚だけでなく、アクセントやイントネーションといった聴覚も大切であり、視覚、聴覚を含む統覚自体がことばを理解しやすくなるための、重要な役割を担っているということに新しく気づくことができた。
*対話の諸形式など
今回の講義においての新しい発見は、対話は「2人のあいだ」だけとは限らないということである。更に同項目で、「特に、この人はなぜこのような考えを持つようになったのか」と考えながら話を聞くことが、内的対話であると述べられていたことも、自身にとっては新しい気づきであった。
私はこれまで固定概念に囚われていたため、対話とは一対一で話をすることだとばかり考えていた。
しかし、今回の講義を受けて、一対一の関係に限らず、例えとして紹介されていたようにゼミでの発表のような集団と発信者という複数人と一人という関係や、自分自身との対話という形が存在することに気づかされた。また、必ずしも話し合うことが対話であるかというとそうではなく、発信者が言おうとすることを言葉だけではなく、表情やイントネーションから読み取り、自分の中でそれに対する意見のようなものが生まれることも、対話といえるのではないかと思うようになった。以上が、自身にとっての新しさの理由である。
*方言のアクセントについて
今回の授業で、人が話すことに付いてくる表情や身ぶり、イントネーションは単なる言葉の付属物ではなく、相手に言葉を伝えるにあたって理解しやすくなる重要物であることを知りました。
イントネーションは、出身地による独特の方言であり、その地特有のものであると思っていました。
しかし、今考え直すとその地特有のものであるがうえに、その地ならではの話し方をすることで相手に信頼や安心感をもたらして言葉を伝えることができているのではと思いました。方言で話すことで、同じ地に住んでいるということから安心感を得ることができ、さらにことばを理解しやすくなる適切な相手への伝え方であると感じました。
このように、イントネーションや表情をつけることで、相手への適切な伝え方ができたり、特性を理解できたことが私の新しさとなりました。
*質問
今回の授業内容でもある、相手の顔を見ながらの対話と、音だけ、文字だけでのやり取りでは様々な違いがあるという事実は現在のコロナ禍で多くの人が痛感したことだと思います。その中で、先生がオンライン授業をされる上で意識されていることがあれば教えて頂きたいです。また、対面での学習の定着と、オンライン・遠隔学習の定着には違いがあるのか、疑問に思いました。
〔誰もいないなかで90分しゃべり続けることは、自分のことばに酔う以外には不可能であろうと思っています。したがって、なるべく具体的に文章にしてお伝えする、質問にはできるだけ丁寧に答える、ということを心がけています。それでも不十分だと思いますが。〕
日本語の「自由」に曖昧さがあることに、メリットはあるのか?
〔どの言葉にも曖昧さがつきまとっています。自分は今、どのような意味でその言葉を使っているのか、ということを意識することが求められます。これは、どんな言語にも求められることでしょう。〕
討論の際に、その人数が少ない時の方が交わりの直接性が強くなると書かれてありましたが、この直接性の強さによって人それぞれの言葉の理解度、またその人数の割合に影響されるのでしょうか。
〔人数が少ない方が理解度を高める条件として良いかもしれませんが、もっと重要なことは、話し手・聞き手の姿勢でしょう。たとえば、何とか理解しようと聞いていることと、何となく聞いていることとは、理解度はまったく違ってくるでしょう。〕
子どもの頃に人と話す時は相手の目を見なさいと言われたことがあるが、子どもの頃から習慣づけることで、人との対話に必要なことを感覚的に身につけていくのですか。
〔傾聴(アクティブ・リスニング)という言葉があります。それに関して重要なのは、一生懸命聞いていたら、新たに気づくことがあった、という経験ではないでしょうか。〕
現代の若者は対面での会話よりもメールなどの統覚を活用しない対話を好むというデータを見たことがあるのですが、これにはなにか理由があるのでしょうか。
〔もしそういうデータがあったとしても、現在のコロナ禍のなかでは正反対のデータが生まれているのではないでしょうか。つまり、データそのものの信頼性を検討してみる必要があるように思われます。〕
《講義メモ》
はじめに
朝日新聞に連載していた哲学者鷲田清一のコラム「折々のことば」(現在は休止中)に、劇作家平田オリザの次のようなことばが掲載されていた(2018/2/20)。
「ディベートは、話す前と後で考えが変わったほうが負け。ダイアローグは、話す前と後で考えが変わっていなければ意味がない。」(平田オリザ)
ディベートと対話(ダイアローグ)を対比して論じているところが見事であるが、ここでもっとも重要な点は、「話す前と後で考えがかわってい」るとはどういうことか、を明らかにすることである。平田が言いたいことを、彼が書いた著作で補ってみよう(平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012)。
「『対論』=ディベートは、AとBという2つの論理が戦って、Aが勝てばBはAに従わなければならない。Bは意見を変えねばならないが、勝ったAの方〔の意見〕は変わらない。
『対話』は、AとBという異なる2つの論理が摺りあわさり、Cという新しい概念を生み出す。AもBも変わる。」(pp.102-103)
つまり、ディベートは新しい考えをまったく産み出さないが、対話はその参加者の論理のそれぞれがまったく新しいものに変貌する。つまり「新しい概念を生み出す」。これが対話の持つ創造性である。
I コミュニケーションと対話(ダイアローグ)
【物理学者デヴィッド・ボームのダイアローグ論】
以上のような平田オリザの対話についての考え方と類似し、それをさらに深く哲学的に論じたものに、デヴィッド・ボーム『ダイアローグ―対立から共生へ、議論から対話へ』(1996/2004//2007、金井真弓訳、英治出版)がある。
この本の初版は1996年にルートレッジ社からアメリカ合衆国およびカナダで出版されているが、ボームは1917年誕生、1992年死去とされているので、この本は彼が書き残した小さな作品7編を死後に編集して1冊の本にしたものである。残念ながら、それぞれの作品が何時に執筆されたかは明記されていない。しかし、内容的に見て、国際的にはまだソ連の崩壊による東西冷戦終結よりも前、また、いわゆる貧困をめぐる南北問題の渦中にあり、また国内的にも人種差別反対やジェンダー平等の要求などが今ほど高揚していない時期に書かれている。
とくに、「多様性」をどう位置づけるのか、という視点は、ボームの著作では、明確には述べられていない。もちろん、彼の著作から「多様性」の視点を導き出すことはできると思われるが、顕現していないところに歴史的な限界・制約がある。
しかし、この本には、対話の持つ創造性について、物理学者ボームにふさわしい、実に見事な例解がある。
ボームによれば、アインシュタインとボーアは一方は相対論、他方は量子論と考え方が異なるが、どちらも20世紀を代表する物理学者であった。長年にわたるディスカッションのなかで、彼らは互いに敬意をもちながらも、学問上の自説を譲らず、とうとう話し合っても無駄であるとお互いに悟った。ボームはこの2人が「対話」というものを知らなかったことを残念がっている。―「対話をしたならば、彼らは相手の意見にきちんと耳を傾けられたかもしれない。そして、二人とも自分の意見を留保し、相対論と量子論を超えた新しい理論にたどり着いただろう」。ここで言われる、「相対論と量子論を超えた新しい理論」という点が、対話のもたらす創造性をよく表している。
もちろん、ここでの「新しい理論」とは世界初の理論という意味合いであるが、創造性のレベルは様々であってよいと思う。歴史的に見れば新しいことではないとしても、対話者たちにとって新しいものが産み出されることに対話の意味がある(たとえば、前回紹介した自由についての対話)。重要なことは、対話者たちが予期しなかった「新しいもの」が姿を表すことである。
【語源からの解明】
ボームは問題になっている概念を考察するとき(彼の著作の場合、コミュニケーションとダイアローグとである)、その語源に遡(さかのぼ)って検討している。もちろん、語の意味というものは歴史的に変化するものであるので、語源をたどればすべてがわかる、というものではない。だが、語源は、それを重視するボーム自身がこれらの概念をどのように捉えているのかを、理解しやすくしている。
コミュニケーション
「これ〔コミュニケーション、communication〕の元になったのは、ラテン語の『commun』と、『何かをさせる、やらせる』を意味する、『fie』と同様の接尾辞の『ie』だ。だから、『コミュニケートする(伝える)』という言葉の意味の一つは、『何かを共通なものにする』である」(ボーム『ダイアローグ』第1章、p.37)。
少々解説すると、ラテン語のcommunはそのままでは辞書に掲載されておらず、抽象名詞のcommunitas、あるいは、それに類する形容詞のcommunisが、意味を調べる上ではより適切であろう。この形容詞は①共有の、共通の、一般の、公共の、②〔二つの事柄の〕どちらにも属する〔という意味で共通の〕、③愛想のよい、親切な、という意味を持っている。したがって、コミュニケーションとは「共有する」とか「共通なものにする」と考えられる。
ここから重要になるのは、「何を共有するのか」ということであろう(これについては後述)。もし共有とか共通化があまりにも膨らみ、人々が一色になることは、コミュニケーションの崩壊やコミュニケーション・ギャップと同じように、危険なことであろう。ボームもそれを警戒しているが、まだ「多様性」という概念がないので、曖昧さが残っているように思われる。
ダイアローグ
「『ダイアローグ(dialogue)』はギリシャ語の『dialogos』という言葉から生まれた。『logos』とは、『言葉』という意味であり、ここでは『言葉の意味』と考えてもいいだろう。『dia』は『〜を通して』という意味である―『二つ』という意味ではない。対話は二人の間だけではなく、何人の間でも可能なものだ。対話の精神が存在すれば、一人でも自分自身と対話できる。この語源から、人々の間を通って流れている『意味の流れ』という映像やイメージが生まれてくる」(第2章、p.44)
【人々の間における意味の流れとは】
意味が人と人とのあいだを流れている、とは、どういう状態であるのか。この点は、社会学的・心理学的対話論を創出したミハイル・バフチン(1895〜1975年)が西洋哲学における対話論の祖であるソクラテスを考察したことから、学び取るとこができる(バフチン『ドストエフスキーの詩学』1963/2002、望月哲男・鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫)。
その特徴を簡単に言うと、「真理とは一人ひとりの人間の頭のなかに生まれ、存在するものではなく、ともに真理を探究しあう人間同士が対話的に交通する過程において、人々のあいだに生まれてくる」(p.226)、という点にある。それを「真理の対話的本性」と短く述べている。それは、まだ、あれこれの思想を個人の名前と結びつけるような時代よりも前の、思想が生き生きと生まれてくる時代の誕生したものであった。
〔ソクラテスの弟子であったプラトンは、ソクラテスの対話論を引き継ぎつつも、イデア論によって、思想と個人の名前を結びつけてしまった。イデア論とは天空にイデア(観念)が宿っていてそれが地上に降りてきて、思想が対話によって顕わになるという考え方である。バフチンは明らかにこれによって対話論が崩されはじめたと見なしている〕。
ここで、対話における意味の流れ、意味の共有ということについて、述べておきたい。まず、対話においては、意見の共有を目指すのではない。なぜなら、意見の共有ということになれば、一方が他方を批判し説得することが生じる。それでは、対話の創造性は発揮されない。重要なことは、意味の共有である。それが示唆するものは、まず、対話参加者の発言から、それはどういう意味か、なぜそのように考えているのか、等々と考察することである。さらに、その考察は、対話参加者はお互いがお互いの鏡となりうる、ということを考慮すれば、相手のそのような意味のなかに自分をも見出す(このように考えるこの点は自分も同じであるが、その点では相手と違っている、等々)ことにも繋がってくる。このような内省的な作業が相互に行われることによって、新しい考えが生まれる土壌が創られるのである。
このような対話は、コミュニケーション・ギャップやコミュニケーションの崩壊を防ぐことになるが、次に、そうしたコミュニケーションが上手くいかなくなる原因をボームがどう考えているかを、紹介することにしよう。
II コミュニケーションを阻むものと促進するもの
【思考の「断片化」と「コヒーレンスcoherence」】
まず、ボームがコミュニケーションの阻害と促進とについて述べたことを概念的に整理しておきたい。コミュニケーションが「意味の共有」に進めないのは、各自の「想定(assumption)」つまり「意見(opinion)」に固執し、絶対化するためである。この根底には思考の「断片化」がある。
それに対して、コミュニケーションを促進するものとしては、「コヒーレンス」(=理路整然としていること、理性化)が上げられている。これによって、思考の「断片化」を克服する方向に行くことができる。私流に解釈すれば、これは全体的視野を得ることにつながっている。
これを具体的事例を通して考えてみよう。「原発は全廃した方がよい」という意見がある。その理由は、結局、福島での原発事故はコントロールができなかった(ドイツのメルケル首相はいち早く自国の原発全廃の方針を出したのは、「日本でもコントロールできないのなら、世界のどこでもコントロールできない」という理由だった)。10年経っても、帰郷できない地域がある。廃炉までに数十年かかる。より全体的に捉えると、放射性廃棄物の最終処分はいまだ定まっていない(フィンランドで地中深く埋め込むことが試みられているが、その地層は過去に地震等が起きたことがないのが必須であり、放射性廃棄物が無害化するにはほど10万年かかるとされている)ことである。さらに、火力発電に頼らずに(気候変動問題との関わりで)、原発を全廃したとき、どのように代替エネルギーを確保できるのか(水力、風力、水素など)が検討されねばならない。以上の事柄のうち、代替エネルギーの開発、放射性廃棄物の最終処分が、この問題の全体的な範囲のもっとも外側の境界にある問題であろう。これらを視野においたときに、この問題での思考の「断片化」はやや緩和され、「コヒーレンス」の確保が始まると考えられる。
【何が対話の創造性を保障するのか】
対話の創造性を保障するものを1つあげるとすれば、内省あるいは内省的態度がそれであろう。これをデヴィッド・ボームに即して、具体的に述べてみると、次のようになる。
1つは自分の想定・意見を「留保状態」(p.68)にすること、より鋭く言えば、自己の想定・意見と自己自身とを同一化し、自己の想定・意見を守ることは即ち自己自身を守ることである、というような見方(p.92)を棄て去ることである。
もう1つは、話し合っているときに、お互いに、相手との「類似と相違」にきづき、そうした「知覚」から、その後の何かが姿をあらわしてくる。ボームによれば、これは芸術家と彼が働きかけている対象との対話、科学者とその同僚との、また自然との対話においても現れるものである(p.39)。ここで言われている”he sees the similarity and the difference, and from this perception something further emerges in his next action”(p.3)という事柄は、内省の故に可能となる。すなわち、自分の想定と意見を自分のなかからひきずりだしてそれを吊るして自分でよく見ることこそ、内省の働きである(それを助けているのが相手の想定・意見が鏡となっていることであり、それが類似と相違をわかりやすくしている)。
この面は、次回の講義の課題となるが、外的対話(他者との対話)が創造的になるためには、内的対話が不可欠となる。これは、デヴィッド・ボームもミハイル・バフチンも暗示していることだが、ヴィゴツキーによって鮮明になるものである。
III バフチンと対話の原理
ミハイル・バフチン(1895〜1975年)は、ロシアの言語学者・文学研究者であるが、とくに、ドストエフスキーの晩年における長編小説群の研究によって、今日でも対話理論に基盤的影響を与え続けている。バフチンはこの長編小説群の内容的研究よりも芸術形式に着目し、そこに画期的な対話形式を発見した。ここでは、バフチンが提起した対話理論の要点だけを述べることにしよう。
参考にする文献は、バフチンのドストエフスキーを論じた2つの書物——『ドストエフスキーの創作の問題Проблемы творчества Достоевского』(1929年、邦訳同名、2013年、平凡社ライブラリー)と『ドストエフスキーの詩学の問題Проблемы поэтики Достоевского』(1963年、邦訳『ドストエフスキーの詩学』1995年、ちくま学芸文庫)、さらに前者を後者に改編することを意図した論文「ドストエフスキーに関する著作の改編に寄せて」(1961年)である。
【ポリフォニー小説とダイアローグ―参加者の平等性】
バフチンの造語であるポリフォニー小説とは、形式的に言えば、小説の多声的構成(作中人物の自由な発話・対話)という意味である。作中人物が対等な人間たちになっているため彼らの声が1つひとつ意味をもってくる。それは、モノローグ(独裁的な声)とは対立的である(ピアジェやヴィゴツキーにおいては「独り言」という意味として発達的平面において捉えられているが、バフチンはこの語を社会的平面において理解している)。しかし、それだけではない。ドストエフスキーの小説では、作者はどういう役割をになっているのか?そこに、ポリフォニー小説の核心がある。
バフチンの『ドストエフスキーの詩学の問題』(1963年)にはその解答らしきものが書かれている(『創作の問題』(1929年)にも同じ文章が見られる)。少し長いが引用しておこう。
「ドストエフスキーについての膨大な文献を読んでみると、次のような印象が作り出される。すなわち、問題となっているのは、長編・中編小説を書いた1人の芸術家としての作者についてではなく、いく人かの思想家としての作者——ラスコーリニコフ、ムィシュキン、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフ、大審問官など——の一連の哲学的発言についてなのだ、と。文学批評の思惟にとって、ドストエフスキーの作品は、その作中人物たちによって主張される・一連の・自主的で・相互に対立する・哲学的諸構成に分解された。それらの構成のあいだで、作者自身の哲学観はけっして前面に押し出されていない。ドストエフスキーの声は、ある研究者たちにとっては、彼のあれこれの作中人物たちの声と溶け合い、他の研究者たちにとっては、すべてのイデオロギー的声たちの独特な総合であり、第3の、最後の、研究者たちにとっては、ドストエフスキーの声はそうした声たちによって聞こえなくなる。...... 作中人物は、イデオロギー的に権威を持ち自主的であり、彼は自分自身の重みのあるイデオロギー的概念の作者と捉えられるのであって、ドストエフスキーの芸術観を仕上げる客体なのではない」(1963/2002, с.9 //『ドストエフスキーの詩学』1995, p.13)。
これを理論的にまとめてみると、次のようになるであろう。
①作者自身も作中人物も、個人として、より正確には、«человек-личность»「人格〔個人〕としての人間」として(『改編に寄せて』 1961 / 1979, с.318)、生きていること。バフチンはこれを人間の物象化(概念化)に対置している。ここで言う物象化(概念化)とは、農民とはこうしたものだとか、女性とはこうしたものだとかの、人間をグループ化した捉え方であり、それに対して、個人として人間を捉えるということが意図されている。しかも、作中の諸人物も作者自身も同じような存在として捉えられているのである。
②作中人物は作者の意のままになると思われがちだが、そうではなく、作中人物の独自の生成があること〔「作者はプロメテウスのように、自分から独立した生き物を創造(より正確には再創造)し、作者はこの生き物と同権であることが明らかにされる」(1961/1979, с.309)〕。
③ドストエフスキーの作品では、作中人物と作者の関係は、「作者による定義を作中人物の自己定義のモメントにすることによって」コペルニクス的転回を遂げている。具体的にはそれはどういうことなのか。バフチンは次のように解答している。——「作者が行なったことを、いまや作中人物が行なっている。それは、作中人物自身がありとあらゆる観点から自己を解明することによってである。作者の方は、もはや作中人物の現実を解明することではなく、作中人物の自己意識を、二次的な次元の現実としての自己意識を解明している」(1963, с.58 // 1995, p.102)。こうして、作中人物は作者から自立するのである。
④歴史的に見ると、ドストエフスキーは他の作家よりも早く、個人を成立させた社会的変化を捉えた〔「ドストエフスキーが他の誰よりも早く明らかにすることのできた、現実そのものにおける諸変化。」(1961/1979, с.309)〕。
特に①から③を言い換えれば、次のようになるであろう。——作中人物は作者の意のままにはならないが、しかし、作者がこういう人物を書こうと思わなければ作中人物は誕生しないのであるから、作中人物の創造にとって作者は決定的な位置にいる。その作者がある意味では「独裁的」〔バフチン的に言えば、モノローグ的〕であるとすれば作中人物は小説のなかで生きられない。作者が「対話的」であって初めて作中人物は生きられるのである。
ここから、小説ではなく現実の対話が問題となるときには、小説における作者にあたるような人、つまり、権威が感じられ権力を保有している人の態度が決定的となる。対話参加者の同権性とは、参加者のあいだでの相互のリスペクトと自由な表現を意味し、そのような対話の成立の鍵は権威・権力のある者にある。
【対話の創造性について】
対話が意識的に追究されたのはソクラテスからであり、20世紀に対話を人間論の原理にまで高めたバフチンも、ソクラテスに言及している。
バフチンは「ソクラテス的対話」を、①ドストエフスキーのポリフォニー小説の母胎となるカーニバル文学(典型的にはラブレー)の最初の現れだと位置づけ、②真理は人の内部ではなく人々のあいだに(対話のなかに)あること、③対話の方法としてのシンクリシスとアナクリシス、④広義の文学のなかに初めて登場したイデオローグのあいだの対話、等々と貴重な論点を提起している(バフチン『ドストエフスキーの詩学』pp.226-231)。
このうち、②と③は哲学的のみならず対話そのものにとって、今日でもきわめて大きな意味があるだろう。②は、仮に自分の見解が正しいと思われても、それを絶対化せずに、絶えず他の見解と比較しつつ、相対化する姿勢を持つべきことを教えている〔すでに上述した通りである〕。③は、そのために、1つの見方に他の様々な見方を対置する「シンクラシス」、ある見方をとことん掘り下げていく「アナクリシス」を重視している。神谷流に言えば、前者はある見方をあらゆる連関のなかで見直すこと、後者はある見方を産み出す原因、さらにその原因、そして、さらにその原因、等々というように、発生的・歴史的に深めること、と言えるであろう。つまり、今日的に言えば、物事を《あらゆる連関・関係において》および《発生的に》捉えるということを意味している。
広い意味での対話(ことばのやりとり)を捉えて分類する1つの観点は、対話が何をもたらすのか、という観点である。すなわち、その1つは「ことばの自動化」(バフチンもヴィゴツキーも参照した言語学者のヤクビンスキーの用語)を産み出す対話か、もう1つは、「新しいことば・考え・意味」を創造する対話か、という観点である。
「ことばの自動化」、つまり、途切れることのない(あまり深く考えない)自動的なことばのやりとりを産み出す対話は、「おしゃべり」のようなものである。そこからは、たとえば「楽しかった」という感覚は残るとしても、対話の内容は残らないであろう。
「新しいことば・考え・意味」を創り出す対話は、敢えて形容すれば、哲学的対話(あるいは、その応用でもある教育的対話、治療的対話)である。その対話は途中で途切れたり、沈黙したりする、ということが特徴であり、対話参加者の心のなかには、「複雑な活動の次元におけることばの過程」(ヤクビンスキー「対話のことばについて」第34節、p.38-39)、より具体的には、「複雑な意志的行為、つまり、考え直し・諸動機の闘争・選択などを伴う意志的行為の次元」(同上、第30節、p.35)の過程がある。これは、ヴィゴツキーが言うように、語の1つひとつの意味と位置とをよく考えながら使用する、書き言葉の特徴に近い。
〔参照。「書きことばは、複雑な活動の次元において、ことばの流れを促進する。ここでは、ことばの活動は複雑な活動として規定される。このことをもとにしているのは、草稿の利用である。「下書き」から「清書」への道は、複雑な活動の道である。ところで、実際の草稿がない場合でも、書きことばにおける考えの整理のモメントはきわめて強力である。私たちは、まったく頻繁に、まず自己のなかで語り、それから書いている。ここには、思考における草稿がある。そうした書きことばの思考における草稿は、私たちがこれまでに指摘しようとしたように、内言なのである。」ヴィゴツキー、1934/1999,с.317//2019,pp.116-117。〕
【内省の基礎―内的な第2の声と外的・内的対話】
バフチンはドストエフスキーの人間論・芸術論とともに、とくに対話の具体になればなるほど、ドストエフスキーのドラマトゥルギー〔ドラマの書き方〕を分析して対話構造を解明しようとしている。ここから、現実の対話にも有効であるものを、次のように取り出すことができるであろう。
①まず作中人物の自己意識が「対話化」されていること、その自己意識は「自分自身、相手、第3者に対する緊張した呼びかけ」となって現れていること、「人間は呼びかけの主体である」という点からすれば、こうした「呼びかけ」によって最高の意味でのリアリズムである「人間の魂の深奥」、いわば「人間の内なる人間человек в человеке」を表現しうることを、バフチンは明らかにしている(1963/2002,с280 // 『ドストエフスキーの詩学』1995,p .527-528)。現実の対話を構築ないし考察するうえでも、その出発点となるのは対話参加者の「自己意識」なのである。
②その「自己意識」は分裂・二分化において捉えられる。バフチンにおいて自己意識を理解する鍵となるのは、彼の「第2の内なる声второй внутренний голос」(1963/2002,с.283 // 1995,p.533)である。この表現が分裂・二分化をよく表している。この場合、分裂・二分化といっても病理的ではなく健常なそれである。もしシェイクスピアのハムレットを参照し、その有名な台詞を例にとれば、父親殺しの犯人への復讐に関わって語られた、To be, or not to be: that is the question(このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ——小田島雄志訳)のTo beが「第1の内なる声」であり、 それとは対立的な(この場合は正反対な)Not to beは「第2の内なる声」である。これによって第1と第2の声による「内的対話внутренний диалог」つまり「ミクロの対話микродиалог」(1963,с.282 // 1995,p.533)が可能になる。〔これはどの人も体験することであろう。とくにものをよく考えたり内省したりするときに、自分のなかには、対立的な2つの声があることが感じられる〕。
そうした「第2の内なる声」に種々の関係を持って現れてくるのは他の作中人物の声、つまり他者の外的な声であり、第2の内なる声は、「現実の他者の声の代替物であり、特殊な代用品замена, специфический суррогат реального чужого голоса」(1963,с.283 // 1995,p.533)であった。ここに対話の重要性が現れている。
他者の声の「代替物」「特殊な代用品」について、バフチンはドラマトゥルギーの観点からドストエフスキーの諸作品に即して考察しているが、現実の対話を問題にする場合には、対話の基本骨格は共通していても細部は具体に即して考察する以外にはない。重要なことは、代替物、代用品といっても現実の人間においては第2の内なる声が他者の声とイコールなのではない。この内なる声の出自は他者の声である場合が多いのであるが、それが内なる声に改変されていく過程がそこにはある。
言いかえれば、対話の過程で、あるいは、対話を終えた後の影響として、内的対話(内なる第1の声と内なる第2の声とのあいだの)が成立すること、そうした内なる第2の声が(次の)対話の話題ともなること——そこに対話の深みが実現されていくのである。
【対話の非完結性】
上述のソクラテス的対話、たとえば、個人のなかではなく、個人と個人とのあいだに真理があるという点や、対話の方法としてのシンクリシスとアナクリシスや、さらには、ポリフォニー(多様性)の主張から生まれてくるが、対話は非完結性を特徴としている。つまり、どこまでも続いていくものである。
しかしここで注意の要する事柄がある。それは教条主義と無縁であるが、同時に、相対主義とも異なる。バフチンは、「相対主義релятивизм も教条主義も、あらゆる口論、あらゆる真の対話を排除してしまう、——この対話を不必要にするか(相対主義)、不可能にするか(教条主義)、によって」(『ドストエフスキーの詩学』 1995年、 p.142)と述べている。その人その人に「正しさ」がある(相対主義)であると考えると、対話は不必要になる。「正しさ」は1つしかなくそれを私は知っている(教条主義)というのであれば、対話は不可能となる。
対話はあくまでも多様性を前提とする。それは同時に、対話参加者の意味の共有が高まり、部分的に意見の共有が始まっていく。もっとも完全に同じ意見になることはないが、すこしずつ共有されるものが高められていく。これが対話のもたらすものであろう。
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