〔2021/05/24〕第6回 自我(自己意識)論① 「自他の同時的形成と3項関係」

 〔2021/05/24〕第6回 自我(自己意識)論① 「自他の同時的形成と3項関係」


《お知らせ》

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 なお内容的には、

①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、

②それについての従来の自分の考え、

③自分にとっての「新しさ」の理由、

 を含んでいるのが望ましい。

 また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。


《前回の授業コメントより》

*言語の音声における発達と崩壊

 ①私は今回の講義を受けて、幼児言語と失語症言語の両者ともが音声発達の同じ成層構造を示しており、ゆえに幼児言語と失語症患者の言語とは鏡の像のような関係であり層をなして発達し層に沿って崩壊すると言うことを新しく知りました。そしてこの事から、発達と崩壊は同じ道(過程)にあるということを新しく発見しました。

 ② 私は幼児言語と失語症患者の言語において幼児言語の上層の発達と失語症患者の言語の下層への退行の関連性について考えたことがなく幼児言語によくある一語文などの言語やそれに合わせた身振りや指差しなどの自己の意思を表現する自然的形式は大人になるにつれて失っていくものだと思っていたが、患者の発話の部分から失われていないことが分かりました。

 ③このことから、保育者として幼児の初語を捉える場合、音と一緒に自然的形式をしっかり捉えることが初語を本当に理解する上で大切な鍵であると同時に幼児の初語は、失語症患者の発する音を理解する上で役立つという点においてやはり両者とも同じ道にあるということを改めて感じとても納得しました。以上が私が新しいと感じた理由です。

*発達(発達心理学)と崩壊(精神病理学)の統合という発想

 今回の授業では、発達と崩壊の部分が私の新しい発見である。ヴィゴツキーの発達理論のうちで、発達を扱う発達心理学と崩壊を扱う精神病理学とを統合的に理解し、諸機能の発達とその逆の崩壊とを1つに、統一的に、位置づけたということである。私はこの講義メモを読むまでは、全くの別物であると考えていたし、発達と崩壊を1つに、統一的に位置づけるという考えすらなかった。ヴィゴツキーの発達はその道すじを下から上へと進んでいくのに対して、精神病理等にもとづく崩壊はその同じ道すじを上から下へと移動していくという考えに納得させられた。確かに、同じ道すじを下から上へと進んでいく発達と上から下へと移動していく崩壊は統合させていると感じた。これが私が新しいと感じた理由である。

*反抗期の意味について

 ①反抗期というのは自分の意識の中での自己と他者との分裂過程であることを新たに知った。反抗期が起こる13歳の歳ぐらいの時期に自己意識ができるようになり、そこで自己と他者は違うということ、さらに自己の意見と他者の意見は違うということ、そして世界に対する自分自身の見解を形成し始める。

 ②反抗期というものはただ単に、人に強く当たったり、自分自身がどうすればよいか分からなくなっている時期のことだと思っていた。

 ③反抗期はない方が良いんだと思っていたが、自分自身を形成していく中で、とても重要な感情であることを知ることができ、人生の中で大切な時期だということを知ることができたからである。

*少年・少女期の形成物

 今回の授業で、少年・少女期における主要な発達は自己意識の形成と概念的思考の発達であるということを新たに発見し、学んだ。分裂機能がある程度熟成することで少年・少女期が切り拓かれ、内省が始まる。少年・少女期は自己の認識や他者の認識、そして自分にとっての世界を認識するようになり、自己意識が形成され、概念的思考が可能になる時期である。

 私は以前から、少年・少女期の主要な発達として自己意識の形成があるのは大まかではあるが理解していた。しかし今回の授業で自己意識の具体的な内容を知り、より理解することができた。特に「自分にとっての世界を認識するようになる」という部分に私自身深く共感した。今回新しく学んだことによって、少年・少女期の発達についてより深く理解することができ、そしてそれが私自身の新たな発見となった。

*地層のような発達と崩壊

 私が新たに発見した事実は人間発達が地層のように構成されているということだ。この考え方は発達を地層の堆積に擬えることで成立する。だから、発達は地層が重なっていくようにその道すじを下から上へと進んでいく。しかしその一方で、地層が地殻変動によって断層ができるように発達は崩壊を孕んでいる。この崩壊は発達で形成した道すじをまさしく地層が崩れていくかのように上から下へと移動するように起こるのである。

 従来の自分は人間発達の構成を考えたことがなかった。

 自分にとってこの学びが新しい理由は従来の自分の考えにはなかった発達の捉え方であったこと。そして、崩壊する時の道すじから最初の発達ほど人に残ることがわかり、最初の発達の大事さを地層という構成で発達を見ることによって改めて感じることができたからだ。保育士は人の最初の発達に特に関わる仕事であるので、とても重要な役割を持っているなと思った。

*失語症における「錯語」について

 ①今回の授業で、言語の発達と崩壊はまさに鏡うつしのように同じ順序で、真逆の順を辿って進んでいくものなのだということを知った。また、失語症患者の方が消しゴムをさして、自分では違うことを理解していながらも鉛筆と言ってしまうということが初めはよく分からなかったけれど、赤ちゃんが言葉を習得するときの流れと照らし合わせて考えるとよく分かった。

 ②この授業で知るまでは、失語症についてあまり知らず、失語症患者の方は言葉の発音がうまくできなくなってしまったり声が出せなくなってしまうのかなと思っていた。

 ③実際はそうではなくてその言葉自体がわからなくなってしまい、単語の意味がわからなくなってしまうということを知りました。子どもが言葉を習得するときの「バラ」と「花」の例えがとてもわかりやすかったです。

*「子どもを導く」と「子どもに導かれる」

 私が新たに発見した事実は、「自然発生的―反応的」な教育や学習つまり、「保育は保育者が子どもを導くものだが、子どもに導かれることがなければ、導いたことにならない」ということから、子どもを良い人間性に導くためには、私たち保育者も子どもに導かれなければならないことの大切さに改めて気付かされた。また、子どものことばの発達や心理的発達から、ヴィゴツキーの考える「断絶」を越えさせる教育が自然的発達にいかに依拠していることに気付いた。実際上記の通り保育の現場では、が子どもに導かれ大人だけでは気づけなかった感性や心理が沢山あると思う。

 元々保育者は子どもを預かってる限り、健康と安全を守り健やかな生活を保つためのサポートを行うものだと考えていた。そして人間性や個々の良いところをどれだけ伸ばして行けるか等も重要だと考えていた。しかし、子どものことばの発達や心理的発達から、自然的発達と文化的発達との「断絶」が導かれると考えた。以上のことが、自分にとっての新しさの理由である。

*質問

 小タイトル【失語症と心理機能の後退・崩壊】より、「ことばの崩れ→心理機能の崩れ」ということばから心理機能への一方的な考察がされていましたが、逆に心理機能の崩れがことばの崩れを生じさせる事例などあるのか。そこからことばの崩れと心理機能の崩れには、必ずではないにしろ双方向的な関係があるのかどうか気になりました。

 〔ことばの後退から心理機能の後退は想像力を事例にあきらかになったと思いますが、その逆に、心理機能の後退がことばの後退をもたらす事例はあるのか、という質問ですが、これは丁寧に事例を見ていく必要がありましょう。たとえば、「錯語」は多くの場合、自分は違っていると思うのに、そのように言ってしまう、記入してしまうということがあるようです。その場合には、心理機能の後退が「錯語」をもたらしているとは言えないでしょう。今後の課題になりますが、双方向がありうるかどうかという視点から調べてみましょう。〕

 13歳と同様、新しい心理システムが構築される1歳、3歳、7歳、17歳も統合失調症のリスクは高くなるのでしょうか。またこれらの危機を乗り越えた年齢では統合失調症と診断される人は少ないのでしょうか。

 〔統合失調症の発症時期が統計的に明らかにされており、およそ思春期から20歳代中頃までが多いとされています。したがって、1、3、7歳では統合失調症は発症しないと考えられます。そこから、この疾患は自己意識の形成の時期と深く関わっていると捉えることができます。〕

 失語症の方が発されていた「マタマタ」というのは、乳幼児における喃語、自分だけが理解している言葉と似ているのでしょうか。

 〔私はむしろ、1語で多義的な内容を表す初語に似ているように思います。〕

 失語症は2歳児の状況拘束性のように想像力が低下するとここでは述べられていたが、それは心理システム全面にわたる崩壊だと分かった。では、想像力の一方で記憶力は低下するのだろうか。想像力が2歳児あたりまで崩壊するなら記憶力も同様なのか。それとも低下した上で今までの経験は記憶として本人の中に残っているのか気になった。

 〔記憶力も言語が大きく作用する時期を迎えますので、意味的記憶から直観的記憶に後退すると考えることができるでしょう。〕


《講義メモ》

第6回 自我(自己意識)論① 「自他の同時的形成と3項関係」


I 類人猿と子どもにおける「自我」

 自我は、外国語では、Ego(ラテン語)、I(英語)、Ich(ドイツ語、イッヒ)、Je(フランス語、ジュ)、Я(ロシア語、ヤー)等々と表され、それらはすべて「1人称・単数・主格」、つまり「私が」という意味である。だから、日本語でも「私」でよいわけだが、おそらく普通の意味での「私」と区別するためにわざわざ「自我」と呼ぶようになったのであろう。なお、上記の外国語では、大文字とか《》,“ ”付きで表して区別することもある。しかし、意味は「私」である。

 他方、自己意識(または自我意識)は、きわめて一般的に言えば、そうした自我を意識すること、認識することを表している。したがって、自我はあるが自己意識はまだないという幼い時期があり、その後、子どもが発達するに連れて自己意識が誕生する。

 まずは、自我と自己意識との、そのような区別だけはしておこう。

【チンパンジーと自我】

 チンパンジーに、自我はないとは言えないが、それがどのような自我なのか、までは明確ではないようだ。

 チンパンジーや類人猿の「自我」研究から導きだせるものは、このようなものだ、と思われる。それをもう少し具体的に考えてみよう。

【鏡に映った像】

 鏡に映っているのは「自分である」ということを、人間は知覚できる。人間の子どもは1歳後半の時期に鏡に映った自分に「◯◯ちゃん」と自分の名前を言う、ということになる。こうした、知覚レベルの「自我」は、類人猿、シャチやバンドウイルカなどの数種類の鯨類にも存在するようである。

 その根拠の1つとして「口紅」「ドーラン」によるマークテストがある。鏡に映った自己を最初は他者と認知する(あいさつ等でそれが分かる)、自己像に手を振らせたりして自分の手と鏡の手の対応関係を知らせる、そして、自分の身体の見えないところ(お尻など)を鏡で確認できる、という具合にして、鏡に映っているのは自分だと認知するのである(友永雅己「鏡の国のクレオ」「チンパンジーから知る自己・他者・身体」『人間とは何か―チンパンジー研究から見えてきたこと』松沢哲郎編、岩波書店、2010年、p.210〜、p.223〜)。

【自分の名前に対する反応】

 人間の子どもは、自発的な発話をする以前に、自分の名前が聞こえると、そちらの方を見る、という行為によって反応する時期がある(生後半年ころ)。チンパンジーにも、よく似たことがあるようである。平田聡は次のような報告をしている――「チンパンジーも、自分の名前を知っている。チンパンジーたちがみんなで遊んでいる運動場に向かって『ミズキ』と声をかけると、ミズキがこちらを見る。『ロイ』と声をかけるとロイが振り向く、という具合である。アフリカの野生で暮らすチンパンジーは話し言葉をもたず名前で呼び合うこともないが、人間が飼育して、チンパンジーに名前をつけて呼びかけながら暮らしていると、いつのまにかチンパンジーはそれが自分の名前だと学習する。」(平田聡『仲間とかかわる心の進化―チンパンジーの社会的知性』岩波科学ライブラリー、2013年、60ページ)

 これらは、視覚や聴覚などの知覚レベルでの「自我」であり、類人猿にもそれがあることは、正しいと見なしてよいであろう。しかし、それよりも深い自我はどうであろうか?

【チンパンジーの描画。個性について】

 チンパンジーやゴリラによる描画の研究は、自我の知覚というものではないが、彼らに実際に自我や個性があることを物語っている。

・いわゆる「画風」の存在:4人のチンパンジーがそれぞれに描いた絵は、それをもとに、誰が描いたものかが分かる。それだけ「画風」が違うのである。(事例:描画)

・描画と命名(事例:描画とその命名)

 チンパンジーら類人猿の描画は実際に見たところでは子どもの「なぐり描き」の水準である。そのような絵であるにもかかわらず、手話を覚えた類人猿が語るところによれば、その絵にタイトルを付けることができる(齋藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか』岩波科学ライブラリー、2014年、pp.24〜25、とくにp.25の写真参照)。たとえば、「Bird」(チンパンジー)、「Red Berry」(チンパンジー)、「Love」(ゴリラ)である。(事例:描画)


 ※参照。人間の子どもの場合:描画と命名(ことば・語)の年齢的変化

①「単純ななぐり描き」。ここに関与しているのは色・形・色などの感覚と手の動きなどの運動とであり〔感覚と運動;色などがつくのが面白い、手の動きの跡がつくのが面白い〕、イメージはまだ欠如している。

②「なぐり描き」が終わったあとで「あっ、〇〇」と命名する〔イメージの後発。描画の実際にはイメージは関与していない〕

③「なぐり描き」の途中で「あっ、〇〇」と命名する〔途中までは「なぐり描き」、命名以降はイメージにもとづく描画〕

④「〇〇を描こう」と命名してから「描きだす」〔イメージの先発。イメージにもとづくて描画〕

 なお、抽象画は、④のあとに、意識的にそれをデフォルメする、というものであろう。


※チンパンジーやゴリラの描画は②の段階または①から③の中間の段階にあるであろう。したがって、類人猿は自我の芽生えの直前に位置するように思われる。言いかえれば、類人猿には自我の片鱗がある、と言うことができる。チンパンジーの絵に「画風」が感じられるということは、自我とはもともと個性的なものであることを示しているであろう。その意味でも自我とは「私」なのである。


II 自他の同時的形成

 人間の子どもの自我の問題に移ることにしよう。子どものの自我の形成と彼にとっての他者の形成を精力的に研究した人に、アンリ・ワロン(1879−1962)がいる。誕生から幼年期までの自他の形成は、大まかに言えば、次のようなものであった。

【自己と他者とでは、どちらが先に形成されるのか】

 子どもの意識のなかで自我と他者はどちらが先に形成されるのか。自我が先か、他者が先か。ワロンは、自我と他者は同時に形成される、と考えている。

・最初の意識状態と自我・他者の起源

 これについてワロンは概ね次のように考えている。

 原初的な意識は、宇宙に発生する星雲に擬えることができる。外発的、内発的なさまざまの感覚運動的活動が、はっきりとした境界なしにばくぜんと拡散している。

 やがて核(=自我)、その衛星としての「下位自我le sous-moi」ができる。この下位自我は他者を出自としている〔自分の名前を呼ばれて振り向くという動作で応答するとき、自我の最初の核が認められるであろう〕。この自我と他者のあいだでの心的素材の配分は必ずしも一定ではない(個人によって、年齢によって)。精神生活上で何らかの選択を迫られたときの自他の変動があったり、自他の境界が消え去ることもある。〔ワロンは自我が誕生してから他者が現れてくるのか、他者が現れるから自我が誕生するのか、という発想はとらずに、「意識による・自我の生成と他者の生成とは、並行して行われる」(Wallon, H., 1956/1963, p.90 //1983, p.31)と考えた。〕

【混淆・融即・同一化】

 3歳以前の混淆的状態のなかで、自己と他者は同時に形成される。3歳のときには、他者を否定することによって自己を確立するという形で、自己と他者が同時に形成される。(ワロン)

 そこから3年間の自我主張の「発達」の時期が続く。ワロンによると、否定主義、自己愛、実際に優れた人になりたいという欲求、の3つの段階が認められる。【ワロン『身体・自我・社会』p.31。「このような自我主張の時期(période proprement personnaliste)は、様々な段階を経ながらも、以後約三年間にわたって続いていきます。ほとんど挑発的とも言えるほどに自我を主張する段階に続いて、四歳になるころ、子どもは自分を際立たせ、みえをはり、自分にうっとりできるようになりたいと思いはじめます。人にはなによりも、自分のことをじっと見て誉めるという役割をとってもらいたいのです。しかし、やがてこのような自己愛(narcissisme)的な傾向にかわって、実際に大きくすぐれた自分になりたいという欲求があらわれてきます。そのために、子どもは他者をモデルにして、模倣によってその人物の長所や才能をとり入れ、わがものとして、その人に取って代わろうとします。これは、生後五年目に支配的な傾向のひとつです」。】


  ※自己と他者のあいまいな関係(ワロンによると):混淆(こんこう、confusionnisme, p.95)、融即(ゆうそく、participation, p.95)、同一化(identification, p.96)

混淆:自他の境目がはっきりしない混沌とした状況

融即:自他の区別はあるが自己が他者に「飲み込まれている」(参加している)状況

同一化:自他の区別があるが自己が他者を「飲み込んでいる」(同化している)状況

  以上のことは、3歳未満児に(特に彼の情動において)よく見られる状況であるが、未開社会における情動の伝播(ワロン『子どもにおける性格の起源』)、また、普通の大人の「群衆衝動」(集団心理)においても見られる。【ワロン『身体・自我・社会』pp.59-60。情動の擬態(mimétisme émotionnel)。「人が大勢集まるところではこの情動の模倣性によって群衆衝動が働いて、それぞれの個人は自己の視点を捨て去り、自制を忘れて、情動が表面化しやすいものです。情動は集団衝動を巻き起こし、個々人の意識を、ひとつの混沌とした共通精神のなかへ溶け込ませてしまうのです。それは一種の融即状態(participation)です。ふだん私たちは、しばしば、個人どうしのあいだに境界線を引こうとし、これを守ろうと懸命になるものですが、融即状態では、この個人間の境界が多少とも消し去られてしまうのです。心的段階からみると、この融即は、人が自律性を確立するための出発点となる意識化よりも、より原始的です。」】

 重要なことは、そうした混淆・融即・同一化という自他の区別を曖昧化する状態を通って、自他が形成されていくことである。

III 3項関係の成立(9か月革命)と、事物と子どもの関係、自他の関係

 ここからは、子どもの発達に沿って、自我の形成について考えていこう。ただし、その主なポイントとなることだけしか触れることはできないが、今回はその最初のものである、いわゆる「3項関係」、および、その現れでもある「指示的身ぶり(指差し)」について、述べておこう。

【トマセロのいわゆる9か月革命――子どもにおける3項関係の成立】

 アメリカの認知心理学者、霊長類学者であるマイケル・トマセロ(1950- )は、なぜ生後1年目の終わりにことばの使用が始まるのか、つまり、初語が誕生するのか、と問題を立てて、この時期の次のような子どもの発達の特徴に着目している。すなわち、9〜12か月にかけて成立してくる、①(大人と子どもとの)共同注意フレーム、②伝達意図の理解、③(役割交替をともなう)模倣という形での文化学習、である(トマセロ『ことばをつくる―言語習得の認知言語学的アプローチ』辻幸夫他訳、慶応義塾大学出版会、2008年、第2章「言語の起源」のうち、pp.21-34)。

 この共同注意フレームこそ、3項関係を表しており、子どもと大人がモノに対して共同で注意を払うということ、いわば、自分−大人−モノという3つの項目から成る関係が成立している、と言うのである。それに対して、チンパンジーにとっては2項関係(自分−モノの関係)が特徴的である。

【アイトラッカーの使用による証明】

 極めて興味深い実験装置(アイトラッカー)とそれにもとづくチンパンジーと人間の子どもとの比較研究がなされている。これが見事に2項関係と3項関係とは何かを示している(平田聡『仲間とかかわる心の進化』岩波科学ライブラリー、2013年に紹介)。アイトラッカーとは、動画のどこを見ているのかという視線を記録する装置である。その研究は、これを用いて、モノを扱っている大人の女性の動画を見せてチンパンジーと子どもは何を見ているかを明らかにしている。彼らに見せたのは、大人の女性がコップにジュースを注ぐ、コップを積む、という内容の動画であった。その結論を言えば、チンパンジーは動画のなかでモノ(この場合は注がれているコップ、積まれているコップ)を見ているのに対して、人間の子どもは、大人とモノの両方を見ている、ということであった。言いかえれば、チンパンジーに成立しているのは2項関係(モノ––自分)、人間の子ども(8か月と12か月の赤ちゃん)の場合には9か月頃にはじまる3項関係(モノ––大人––自分)が認められた(平田聡『仲間とかかわる心の進化』岩波科学ライブラリー、2013年、p.51の写真参照)。


 人間の大人は自分にも注がれる視線に応えて、様々に教えようとする。ある意味では、子どもが持つ3項関係が教育を引き出し、そのことによって、人間は知性を発達させてきた、と推論することができるであろう。

 以上にように、3項関係は人間の本性に根ざしており、否定しがたいものである。だが同時に考えておくべきは、3項関係というこのコインには裏側もあることである。つまり、この3項関係が裏目に出ることもある。例えば、過度に他者の「評価」を気にする傾向である。学校における「評価」は学力評価から大きくはみ出し、行動や態度まで「評価」の対象にするようになった。そういう状況のなかで、他者の眼を過度に気にかける傾向が現れてくるのは無理もない(その人の責任ではない)。さらには、業績達成の「評価」を給料に結びつけるような社会の風潮も生まれており、他者による「評価」への注目に拍車をかけている。

【ヴィゴツキーの「指示的身ぶり(指差し)」論は3項関係によって構造的に捉えることができる】

 指示的身ぶりは、すでに第3回の講義で述べたものであるが、それを振り返りつつ、新しい意味づけを行うことにしよう。

 ヴィゴツキーは、初語〔対象のある音〕の先駆けであるのは、対象のある行為である、と考えた。この行為とは、端的にいえば、指示的身ぶり(指差し)のことである。この指示的身ぶりについて、ヴィゴツキーの指摘する、指示的身ぶり(指差し)の3段階がその生成・成立を考えるうえで大いに参考になる。すなわち、

 ①対象に向けられているが不首尾に終わった把握の(モノをつかもうとする)動作

 ②母親によってなされる、その動作を指示と理解する意味づけ(たとえば、把握しようとする手の先を見て「あっ、◯◯が欲しいのね」と言って、その対象を取ってやる)

 ③子どもは指示的身ぶり(指差し)を行うようになる

という3つの順次的段階を通過して成立する。


 ①のモメントは、一方ではモノをつかむという大人の模倣でもあるが、他方では子ども自身の欲求(そのモノを触ってみたい、間近に見たい)にもとづいており、自然的要素が強くうかがわれる。

 ②のモメントは、子どもの行為の、大人による意味づけである(子どもと大人との共同的モメント)。

 ③のモメントは、すでに子ども自身による指示的身ぶり(指差し)である。

 これらを全体として見れば、「あっ、あっ」と言って、モノを指差せば、そのモノが自分のところに届けられるとか、大人のことばが返ってきたりするとかの、経験を子どもはする。


 ②のモメントは意味形成に直接的にかかわる点であるが、指差しが即自的には欲求を満たそうとする行為から始まっている点(①のモメント)、理解語(語について発音はできないが理解はできる状態を指している)も指差しも行為によって応えている点に、着目しておきたい。行為はことばの先行者である。

 〔②と③のモメントが「共同注意フレーム」のなかで生じている。したがって、ヴィゴツキーによる「指示的身ぶり」の考察とトマセロによる「3項関係」の理論づけとは、内的な連関(つながり)がある、と考えてよいであろう。〕

【発生的な見方と構造的な見方】

 第3回の講義で述べたように、ヴィゴツキーは、指示的身ぶり(指差し)のなかには、即自(①のモメント)、対他(②のモメント)、対自(③のモメント)の3つの段階を取り出すことができ、それらを発生的な観点から見た、文化的発達の一般法則だと考えた。一般法則というのは、たんに指示的身ぶりだけではなく、子ども・人間のあらゆる発達はそうした3つの段階を通っていくものだと考えた。たとえば、ことばの発達に関して言えば、①ことばそのものの骨格の形成(音、音と意味、統語論、実際には②と重なっているが、①はその自然的側面を表している)、②話しことば、③独り言から内言へ、ということになるであろう。

・発生的な見方:きわめて大まかに言えば、時間を軸にとったものの見方のことであるが、その過程は1+1+1+ …...というように平坦に量が増大するというものでないことは、生物進化、人類史、個人の歴史(子ども・人間の発達)をみれば、明らかである。即自、対他、対自は、その意味では、質的変化を表している。

・構造的な見方:私たちの祖先であるホモ・サピエンスは長い生物進化の結果であること、現代人は長い人類史の結果であること、現代の子どもも同様であること、は否定しようがない。したがって、発生的な見方を無視してはならない。

 しかし、マクロに物事を捉えるときには発生的な見方(つまり歴史的な見方)が不可欠となるが、人に対する実践を念頭におくときなどにはミクロな見方が必要となる。もちろんミクロな見方にもいろいろある。たとえば、観察と記録を中心にした記述的な見方は、たとえば子ども・人間を対象にした認識においては、個別性を追究するうえでは、不可欠な見方であろう。しかし、また逆に、これだけでは、たとえば自閉スペクトラム症の個々の現れ方は見事にとらえられても、そこにおけるサブカテゴリーの把握は不十分となる。

 そのように、一方での発生的な見方と、他方での記述的な見方とのあいだにあって、両者の利点を活かしていくような見方が実践には必要なのである。その1つに構造的な見方がある。


 問題を具体的に考えてみると、3項関係と指示的身ぶり(指差し)は、後者は前者の1つの事例である、といって間違いはない。つまり、両者には内的な繋がり(連関)があり、指示的身ぶりという具体的な現れを考察することによって、3項関係をより内実のある構造として捉えることができる。

 それは、自己と事物の関係(ボクと取ろうとしている対象との関係)、自己と他者の関係(ボクと母親の関係)、自然的なものと文化・歴史的なものとの関係(対象をつかもうとする把握活動とことばとの関係)という3つの側面・モメントから成り立っている。このように捉えることによって、子どもの行動をより具体的に理解することができるであろう。


 次回は、2歳代に典型的に現れる「状況拘束性」、そこから抜け出す幼年期(3〜7歳)の遊びについて、考えることにたい。とくに後者は、事物、他者、ことば、身体が混ざりあって、全体としては、この時期の子どもの発達に深く関わっている。


《今回のおすすめ本》

平田聡『仲間とかかわる心の進化―チンパンジーの社会的知性』岩波科学ライブラリー、2013年

『人間とは何か―チンパンジー研究から見えてきたこと』松沢哲郎編、岩波書店、2010年


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