〔2021/05/31〕第7回 自我(自己意識)論② 「3歳の危機と事物・自他・遊び」

 〔2021/05/31〕第7回 自我(自己意識)論② 「3歳の危機と事物・自他・遊び」


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 なお内容的には、


①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、

②それについての従来の自分の考え、

③自分にとっての「新しさ」の理由、


 を含んでいるのが望ましい。


 また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。


《前回の授業コメントより》


*類人猿の自我

 私が今回新たに知ったことは、チンパンジーやゴリラなどの類人猿には自我の片鱗があるという事です。チンパンジーと聞くと、他の動物に比べて頭が良いというイメージしか浮かばず自我の片鱗があるとは思いませんでした。事例の描画を見ても、チンパンジーが書いたと最初に言われなければ子どもが書いたのかなと思うほどそれぞれに個性があり、同じ色使いや形がないことに驚きました。また、描いた絵に名前を付けることが出来るということにも驚きました。それぞれの絵がそれぞれに違うということで、自我=私が確立されることの意味が分かりました。

*自他の同時の形成

 ①今回の授業で新たに発見した事実は、自己と他者は同時に形成されるということです。ワロンの考え方では、3歳以前の自己と他者の境目がはっきりと区別できない状態のなかで、自己と他者は同時に形成されます。3歳のときには、他者を否定することによって自己を確立するという形で、自己と他者が同時に形成されます。

 ②今までは、子どもの意識のなかで自我と他者では、他者の方が先に形成されると考えていました。子どもは、親や家族らなどの保育者から名前を呼ばれたり、話しかけられたりすることから、まず自分以外の視界にいる他者を認識し、形成すると思っていました。そして、名前を呼ばれることで自分を認識し、自我が後から形成されると考えていました。

 ③しかしワロンの考えからは、他者との関わりの中で他者だけではなく、同時に自己も形成されるということを知り、理解しました。これが私にとっての「新しさ」の理由です。

*3項関係の成立と指差し

 今回の授業で3項関係の成立について新たな発見があった。実験から共同注意フレームにおいて人間が子どもと大人がモノに対して共同で注意を払うということ、いわば、自分−大人−モノという3つの項目から成る関係が成立している一方でチンパンジーは2項関係自分−モノの関係が特徴的である。人間が他人の評価を気にする傾向にあるのはその3項関係からによるものということに納得がいった。知性を発達させるために築かれた3項関係は人間の本性に根ざしていて、人間の大人は自分にも注がれる視線に応えて、様々に教えようとする。ある意味では、子どもが持つ3項関係が教育を引き出し、そのことによって、人間は知性を発達させてきた。このことは発達にとても有効的だと感じた。そこで2項関係が成立しているチンパンジーは人目を気にするのか?人間と比べどのような発達が遅れているのか?ということが疑問に思った。 3項関係は母親によってなされるその動作を指示と理解する意味づけと子どもによる指差しが「共同注意フレーム」のなかで生じている。したがって、ヴィゴツキーによる「指示的身ぶり」の考察とトマセロによる「3項関係」の理論づけとは、内的なつながりがある。以上のことが今回の授業での新しさの理由だ。

*3項関係の裏面について

 私は今回の講義で、人間の本性は3項関係に根差しており、3項関係というこのコインには裏側もあるということを新たに発見し、学んだ。例えば、学校生活や会社などで過度に他者の「評価」を気にする傾向があるように、この3項関係が裏目に出ることがある。

 私は以前まで、過度に他者からの評価を気にするということが「自分-大人-モノ」といった3項関係が裏目に出で関係していると思わなかった。どちらかというと私は他者からの評価に関しては「自分-大人」という関係が関わっていると考えていた。

 しかし私は今回、3項関係がどのようなものかを詳しく学んだことで、3項関係には裏側が存在するということを新たに学ぶことができた。そして、私は他者からの評価を気にする傾向について違う考え方をしていたので、今回新たに学んだ事実は私にとって新たな発見となった。

*質問

 今回の講義より、初語の先駆けには指示的身ぶりが深く関わっていることが分かりましたが、もし子どもの指さし無しで言葉を発し始めた場合、その後その子の言葉の発達に悪影響など及ぼす可能性はあるのでしょうか。

 〔もしそのようなことがあったとしても言葉の発達には問題はないでしょう。しかし、身体的表現についてはどうなのかは実際の事例を見なければ分かりません。〕

 指差しと共同注意は、何歳頃まで行うのか?

 〔共同注意は子どものときには大人との、大人になってからは子どもとの注意のなかで成り立ちます。また、大人同士のときにも成り立つのではないでしょうか。〕


《講義メモ》

第7回 自我(自己意識)論② 「3歳の危機と事物・自他・遊び」


はじめに

 前回の講義で、トマセロの「3項関係」とヴィゴツキーの「指示的身ぶり」論は、1歳前後の発達の特徴(他の動物には見られない特徴)を表すとともに、ひろく人間発達の(発生的理解の上に)構造的理解をもたらすことを述べた。このような構造的理解は、人間を対象に種々の実践に役立つものとなる。その構造的理解の側面・モメントは、

「自我−他者」の関係、

「自我−事物」の関係、

「自然的なもの−文化・歴史的なもの」の関係

であった。

 そうした3つの関係をもとに、今回は、2歳代に典型的に見られる「状況拘束性」、「3歳の危機」、3〜7歳頃に盛んになる「イメージをもとにした遊び」(ごっこ遊びなど)、について、述べることにしよう。


I 「混淆(こんこう)」、および、場による「状況拘束性」


【2歳以前の情動、知能、ことば】


・情動

 ワロン(1879-1962年)によれば情動の面では、0歳児における情緒的共生状態のなかに「矛盾」、「二極化」がやがて生じてくる【ワロン『身体・自我・社会』ミネルヴァ書房、p.27-28】。

 さらに、自分がいる場面を「能動的な相」「受動的な相」に分解するようになる。たたく—たたかれる、逃げる—つかまえる、隠れる—探す、を交互にやり取りする、という具合にである。子どもはする者とされる者のふたつの役割を演じる。

 ワロンはこの遊びについて述べている。―「こうした遊びのなかで、子どもは最後に相手の人格、他者の人格を発見する」。「それまで未分化であった自分自身の感受性の内部に、他者性(l’alterité)を認識していく」【p.27】。こうして、ワロンは情動の展開・発達のなかに自他の形成を見ようとしたのである。

・知能の段階と人格の段階

 これはすでに2歳代のことになるが、知能発達の「投影的」段階【その場を体験しなければイメージできない】は、人格発達の「融即(ゆうそく)的」段階と、照応している。混淆とは自他の区別がまだ不十分である状態(たとえば母親が悲しくて涙を流すと、それを見て子どもも泣き叫ぶ、というような事例として現れる)である。それに対して、融即とは、簡単に言えば、自他はすでに区別されているものの、その区別が曖昧化したために、自我が状況に「飲み込まれた」状態である。融即はフランス語のparticipation(パルティシパション、英語のパーティシペイションと同じ)の訳語で、無意識的な「参加」ということになろう。ワロンによれば、子どものみならず、未開人にも、さらに現代人の群集心理においても見られる。普段はそんなことをする人はいないのに、タイガーズが優勝したときに、酔いにまかせて、道頓堀に飛び込む人が続出することがあるが、その心理状態が「融即」であろう。逆に、このことから幼児における融即状態を類推することもできる。

 この融即が自我と事物とのあいだに現れたものが、「状況拘束性」であろう。

・ことば

 なお、この時期のことばの面を眺めてみると、1歳後半(2歳になるくらいまで)に「爆発的発話」が見られるが、それ以前は、初語=1語文、意味の般化と分化(たとえば1つの語が数種類の動物を指し、それが数か月をかけて個々の語に分かれていくこと)が特徴である。ちょうど、それは「混淆」状態に照応しているかのようである。


【自我と事物・状況―「状況拘束性」】


・チンパンジーにおける「状況拘束性」

 「状況拘束性」という概念はチンパンジーの研究から生まれた。つまり、ケーラーが属するゲシュタルト心理学派の研究者クルト・レヴィンがチンパンジー研究から学んで用いるようになった概念であった。チンパンジーの道具の発明・使用のところで述べたように、「見渡せる」という条件は、目標物(バナナ)、棒、それに繋げる棒が一目で見られるという条件のなかで、棒を繋げてバナナを取るということが可能になる。そこで支配的であるのは視覚である。〔参照。ケーラーの実験では、犬は肉が金網の近くにあると、嗅覚の強さの故に、金網に直接に身をぶつけて、肉を取ろうとする。以前に用いていた脇の出入口を通って肉を取るという「回り道」を忘れたかのようである。「動物は感覚の奴隷である」と述べた哲学者がいたが、この犬の事例はそのことばを説得力をもって示している。〕

・自他の区別の曖昧さからの脱出の道

 チンパンジーの自我は、以前に述べた「画風」の存在が示すように、いわば「半自我」とでも言うべきものであるので、「状況拘束性」において、混淆状態を抜け出しつつあることが推定される〔しかし、最終的に抜け出せないのは、チンパンジーが、①人間のような言語が欠如していること、②人間のような想像力による過去・現在・未来の見通しが立たないこと、③人間の子どもがするような「ごっこ遊び」をしないこと、のためであろう(松沢哲郎『想像するちから』岩波書店、2011年の指摘による)。松沢は指摘していないが、④3歳の危機に見られるような自我が未形成である、ことにもよる。〕

 人間の子どもが混淆状態を抜けだし、自他の区別の曖昧さから脱出できるのは、大きく言えば、上記の①〜④を克服しているからである。それを自他の区別の進展具合、自我と事物との関係、ことばとの関係に即して、より具体的に考察しておこう。

・情緒的共鳴、情緒的共生状態と「自我」・「下位−自我」

 おおよそ、生後半年頃、自分の名前を呼ばれると声のする方を見ることをする。このとき、「自我」の核のようなものができ、それは同時に、他者に由来する「下位−自我」ができる。これがまだ混淆的な状態における最初の自我であり、そのときからすでに意識のなかに「他者らしきもの」(たしかにそれは自分を呼ぶ声なのだが)が同時に生じる。これがワロンの考え方の出発点である。

 最初の自他は、ワロン流に言えば、情動的状態における「あやす−あやされる」というような関係のなかにあり、ヴィゴツキー流に言えば、事物に対しては大人を介して行為する(大人を使ってモノを取るなどの)という自我と事物、自我と他者の2つの関係が混ざりあっている。

・「状況拘束性」

 2歳代において、ワロンは知能における「投影的段階」とそれに照応する「融即的段階」があることを述べたが、さらに補足すれば、それは「状況拘束性」が顕著な時期でもある。

 実際の場面における状況拘束性(場面による束縛)とは、その現実的場を実際に構成するもの、たとえば、机、椅子、ドア、階段、置いてあるもの、等々は、子どもの行動を誘発する。たとえば、子どもは椅子を見つければ座ってみたくなる、鈴が置いてあれば鳴らしてみたくなる、という具合に、あたかも状況が子どもの行動を拘束しているかのようである。

 ここで注目しておきたいことは、ひとりで遊ぶことが多く見られるようになることである。たとえば、鈴を鳴らすなどはたいてい1人でする。この頃の子どもの遊びは、事物を対象に研究するかのように熱中することが多いので、「真面目な遊び」と言われることもある。こうして、状況や事物は、子どもの行為をひき起こし、それとともに、自他の「癒着」から自我を引き離すかのようである。

・2歳代のことば

 2歳代において、子どもはことばを爆発的にしゃべるようになるが、そのなかで、文を構成する語である統語論(シンタックス。語順とか、格助詞とか、格変化など)をはじめ文法を無意識のうちに学んでいる。しかし、まだ、子どもと事物とのあいだに、語が独特な役割を果たすものとして入り込んでいない。語はたんなる事物の名前として事物の一部になっているままである。


II 3歳の危機


【この時期の「反抗」の本質は?】


・いわゆる「反抗期」

 3歳の危機において子どもが急に反抗的になったと感じるものなので、どう対処したらいいのか、ということが頭に浮かぶのはやむをえないが、しかし、その前に、この時期の「反抗」の本質をとらえること、が重要であろう。あらゆる物事はそれがよく理解できれば問題はなかば解決したようなものだからだ。

・反抗や頑固さのようなネガティブな現象の背後にあるポジティヴなものがある。

 「反抗」の問題の中心になる問いは、反抗のようなネガティヴな現象の背後にポジティヴなものがあるのかどうか、である。私たちは、子どもがあることをしたいと思っているのに、大人がそれを遮(さえぎ)ったので、子どもは抗議し、反抗している、と考えがちである。もちろん、そのような反抗は大いにあるし、その場合には、子どもの反抗の動機は、事物への固執である。ところが、3歳の時期の反抗や頑固さは、それだけではない。

 「本当はしたいことなのに、大人にそうしたらどうかと言われたので、しない」。

 これが3歳の危機における反抗の本質的特徴である。ここでは、子どもの行為の動機が、モノに由来するのではなく、人に由来するものになる。動機がモノから人に移行する(ヴィゴツキー「3歳と7歳の危機」『「人格発達」の理論』)。言いかえれば、子どもは、行為(この場合は反抗的な行為)によって、他者を浮き彫りにし、そのことによって(まだ意識的ではないが)自我を芽生えさせる。

 生後6か月くらいに生じる他者に由来する「下位−自我」を包み込んだ「自我の核」、そのような自他の癒着が、この3歳の危機、そこでの反抗を通して、新しい自他の関係を生み出している。他者を否定することによって自我を芽生えさせるという関係である。


【自我の芽生えと「同一化」】

 ワロンは幼児の感情や自他の関係の発達を考察しながら、「混淆」「融即」「同一化」の概念によって説明しようとした。自他の区別がまったく曖昧である「混淆」の状態、自他の区別は始まりつつあるが自我が状況に「飲み込まれ」ている「融即」の状態、さらに、自他の区別がより明確になりつつあるのに状況を自我に「飲み込んで」いく「同一化」の状態である。

 この「同一化」は、ピアジェが言うような「認知的自己中心性」に近い。その特徴は、物事の認識に自己の「感覚・知覚・性格」の烙印を押すような見方であり、これは幼年期(3歳から7歳くらいまで)に特有なものである。「こんな天気の良い日には(自分は)散歩をしたくなるが、(2匹の毛虫がはっているのを見て)毛虫の親子も散歩をしている」というように、幼児は見る。「夏の暑い日に砂場に水をまいたら水がなくなったのは、砂も口が乾いて水を飲んだから(それを自分は見た)。それと同じで、池の水が少なくなったのは下にいる石や泥が水を飲んだから」。このように事物を、自分の感覚と同じように、つまり、人間のように、とらえる見方を、ピアジェはアニミズムと呼んだのである。

 ところで、ワロンやピアジェが述べたこのような「同一化」「認知的自己中心性」がどのように形成され崩壊していくのかを、ヴィゴツキーは、幼年期の遊び(ごっこ遊びのようなイメージにもとづく遊び)のなかに実に見事につかみ出したのである。


III 幼年期の遊びの発達的意味


【「チンパンジーはごっこ遊びをしない」】

 動物も遊ぶことは以前から知られている。哺乳類の遊びはよくわかる。たとえば、犬も子ども同士がじゃれあっていると言われるように遊んでいる。猫は毛糸玉に跳びかかるように遊んでいる。それらはおおむね将来の狩猟などの準備であると言われ、そのような将来の本格的活動の「予備練習」とさえ言われている。人間の子どもも小さなときにはよく似た遊び、まだ想像にもとづかない遊びをし、それは「予備練習の遊び」と呼ばれることもある。

 チンパンジーもそのような「予備練習の遊び」を行うが、そこに当てはまらない遊びも見られるのである。たとえば、それは「模倣の遊び」とでも言うべきものであろう。チンパンジーの母親が赤ちゃんを抱っこしている。その隣で、子どものチンパンジーが木片を抱っこしている。それはおそらく「模倣」の行為であろうが、そこに「見立て」(木片を赤ちゃんに見立てる)という想像的要素があるかどうかは、残念ながら、確かめられない。チンパンジーの遊びは、おそらく、そこまでであろう。

 長年チンパンジーと暮らし観察してきた松沢哲郎は、1例反証といって、常識的だと思われているチンパンジーについての命題(たとえばチンパンジーには記号を理解したり使用したりする力がない、という命題)に、それに反する事例を発見したり実験的に創り出したりする試みを数多くしてきた。その松沢にしても、「チンパンジーはごっこ遊びをしない」と言うのであるから、ごっこ遊び(イメージや想像をもとにした遊び)は人間に固有な遊びであることを示している。(もちろん将来、研究方法が進展し、類人猿や鳥類にもごっこ遊びの能力があることが示されるかも知れないが、いまのところ「人間にだけ固有」と言うことができるであろう)。


 したがって、重要なことは、人間だけが行う遊びを分析することによって、人間の発達をより豊かに理解することが可能になることである。まさしく、ヴィゴツキーはそのようなことを行ったのである。ここでは、ごっこ遊びのような人間に固有な遊びを、たんに「遊び」と表記することにしよう。


【モノと語との癒着、モノからの語の解放】


・事物の「言い換え」

 遊びのなかに、モノ(事物)の「言い換え」があることは以前から知られている。子どもの遊びのなかでは、石をお菓子に「見立てる」というようなことがよくある。これが、モノ(事物、この場合は「石」)の言い換えである。ヴィゴツキーはこうした平明な事実を取り上げて、それを深く考察したのである。

・最初はまだ、「言い換え」にあたっても、語は事物の一部のようであった。

 遊びにおける「言い換え」の意味を明らかにするために、ヴィゴツキーはある実験の結果に注目した。―「言うい換え」によって付けられた「新しい名前」は、その語がもともと示しているモノ(事物)の性質まで一緒に運んでくる、というものであった。たとえば、ある犬を「雌牛」と見立てるとすれば、それにともなって、「角(つの)」がある、「乳を出す」という雌牛の性質も、「雌牛」と見たてれられた犬にはなければならない、と子どもは言うのである。

・語とモノ(事物)との「癒着」と「分離」

 このような初期の「言い換え」が示していることは、それまでモノ(事物)と語がいかに強く結びつき、モノと語とがまるで1つのものを形成しているほど、「癒着」していることである。それは、ある意味ではやむをえないことで、1歳半から2歳代には、子どもは爆発的に発話し、語彙も増加しているので、モノ(事物)の1部であるかのように、語を発達させているからである。ヴィゴツキーがまず捉えたのは、遊びを通して、モノと語との「癒着」が解きほぐされ、モノと語とが分離していくことであった。

・モノ(事物)が語を主導するフェイズから語がモノ(事物)を主導するフェイズへ

 そうした分離は何をもたらすのか、という問題については、①モノが語を主導するフェイズから、②語がモノを主導するフェイズへ、という一種の逆転が生じる、と答えることができる。

・2つのフェイズの中間にある「遊び」

 この①のフェイズから②のフェイズへの転換は、遊びのなかで生じるのだが、その転換と逆転は一挙に完成されるわけではない。モノ(事物)と語が癒着し、語がモノの一部である状態は、まだ想像力がモノと語との関係について働いていない状態である。その対極には、②のフェイズの完成された状態、つまり、想像力によって、あらゆるモノ(事物)があらゆるモノ(事物)になるように扱われる状態である(「石」が何にでもなる状態)。遊びは、フェイズ①から②への移行過程にある。したがって、「言い換え」られた「雌牛」の語が「角」と「乳」をも連れてくるというは、そのような中間的な状態であろう。フェイズ②の最後にあるのは、そうした「付随的なもの」がなくても、純粋な想像によって、「言い換え」が自由になることである。したがって、遊びのなかでは、あるモノが「言い換え」られて別のモノになるためには、モノが支えとして必要であるが、純粋な「言い換え」にはモノの支えは必要ではなく、ただ豊かな想像力があればよいのである。

 したがって、遊びは、想像が欠如した状態と想像が高度に発達した状態との中間に位置しているのである。


【身ぶり(行為)とことば】

 ヴィゴツキーは、モノと語との関係の考察とほぼおなじような考察を、行為と語との関係においても行っている。遊びはこの面で次のような特徴をもつ。

 行為が語を主導するフェイズから語が行為を主導するフェイズへの転換

 行為が語を主導するという想像が大した役割を果たさない状態と、行為の要らない頭の中の想像の状態との、中間にある遊び

 遊びのなかでの行為は現実の行為の論理に忠実な再現である

 遊びにはそのような行為の支えがまだ必要である


 これが、ヴィゴツキーが遊びにおける行為とことばとの関係について考察したものである。


 最後に、三番目の特徴を示す事例のみ紹介しておこう。ヴィゴツキーの弟子にあたるエリコニンは、注射とアルコール消毒の順番を幼児はどのように捉えているのか、という実験を行っている。お医者さんと患者で遊んでいる子どもたちに、傍らから、実験者が声をかける―「本物のアルコールをもっているの。カバンのなかにあるから、それを取ってくるね。とりあえず、注射を打っておいて」。3歳児は、何の変化もなく、いままでどおり遊んでいる。4歳児はいわれた通りに「さきに注射を打って」いる。ところが、5歳児は「先に注射を打つ」のはおかしいと言い、アルコール消毒をまずするために、実験者が戻ってくるまで、遊びを中断したのである。

 この5歳児の態度が遊びをよりよく特徴づけている。遊びのなかで、子どもは思いのままに行為しているように見えるが、実はそうではなく、現実の行為の論理(上記の場合には、まずアルコールで拭いて、その後で注射をする)にきわめて忠実に行為するのである。


【「最小抵抗路線」と「最大抵抗路線」―感情と意志との関係】

・「最小抵抗路線」=「最大抵抗路線」

 ヴィゴツキーによる遊びの考察のひとつに、次のものがある。――遊びのなかには「最小抵抗路線」(したいことをするのだから、そこでの行為に「抵抗」するものは最小である)に沿った行為があるが、それと同時に、その行為を現実の生活に照らして捉えてみると、その路線は「最大抵抗路線」(遊びのなかの行為は、同種類の行為が生活のなかで行われると最もしたくないこと、その行為への「抵抗」が最大である)でもある。

 肝心なことは、遊びのなかに2つの路線が通っているのではなく、これらは1つの路線であることだ。遊びのなかで子どもはしたいことを好きなように楽しく行為しているのだが、その行為は実は子どもにはもっとも困難な行為だ、ということである。

・3姉妹の遊びの事例

 以上のことをよりよく説明する事例としては、イギリスの研究者サリーが行った3姉妹の遊びの実験がある。それは概ね次のようなものであった。長女が母親役、次女が姉役、三女が妹役で、一緒に架空のお菓子を食べている。傍らから実験者が、「キャンディーがあるからそれで遊ぶことにする?」と提案すると、子どもたちは同意する。そこで実験者は「でもね、キャンディーは1つしかないの。それでもいい?」。ふたたび子どもたちは同意する。ここに独特な「葛藤」が生まれる。遊び続けるためには、一番小さな妹にキャンディーをあげなければならない。ところが、キャンディーを自分のものにしたいということが強く働けば、そこで遊びは終わる(たとえば、母親役の女子がキャンディーを自分のものにして食べるなら、「そんな遊びはない」と言って他の女子たちはもう遊びを拒絶する)。遊びは前者の道を歩むが、それは現実の生活の中では、キャンディーを他者に譲るというのは困難なことである。楽しい行為の背後には困難な行為が隠されている。これが遊びにおける「最小抵抗路線」と「最大抵抗路線」である。

・感情と意志

 以上のことをやや一般化して言えば、これらの2つの「路線」が示していることは、感情と意志との関係であろう。一般的に言えば、3歳未満の子どもの場合には、概ね、意志は感情に左右される。大きくなるにつれて、意志が感情に左右されることは少なくなる。大人は、感情よりも、合理的なものに意志を従わせようとすることがよくある(たとえば、現在のコロナ禍において「公共交通機関のなかではマスクをしましょう」という呼びかけに従うというようなことである)。幼年期の遊びは、楽しさという感情のもとに意志を育てるという独特な作用を持っていることになる。


【他者を演じること】

・自我の芽生え

 モノの「言い換え」、あるモノを他のモノに見立てるだけでは、まだ、ごっこ遊びではない。自分の「言い換え」、自分を他者に見立てること、つまり、他者を演じることによってこそ、ごっこ遊びが生まれる。したがって、自我の芽生えがあって、はじめて(ごっこ遊びなどの)遊びが生まれるのである。

・他者を演じること

 反抗に現れた動機はすでに述べたように、人間であった。つまり、「自分のやりたいことであっても、大人がそれをしてみたらと言ったので、しない」ということのなかには、行為の動機がモノから人間に移動していることを示している。だから、遊びのなかでは、あるモノを他のモノに見立てて遊ぶことそのものよりも、自分を他者に見立てること、つまり他者を演じることの方が、はるかに楽しいものに見える。

 他者が演じられるほどに自我が形成された。しかし、その自我はまだ意識されていない。これが幼年期の自我の特徴である。

・自我はまだ主軸ではないが

 こうして、ヴィゴツキーは、遊びのなかに、モノ(事物)と語、行為(身ぶり)と語、感情と意志、などのあいだにおけるパラドックスを発見し、その動態をつかみ出した。自我の芽生えと形成は、これらと関連しあって、進展していく。しかし、発達全体の主軸にはなっていない。これが13歳の危機および少年・少女期(思春期)における自我形成(自己意識を持った自我の形成)との大きな違いである。


おわりに

 以上の他にも、ヴィゴツキーには、遊びについて鋭い見方を示している。

 その1つは、「遊びは、虫メガネの焦点のように、発達のあらゆる傾向を凝縮している」というものである。これまでに述べてきたパラドックスや中間的性質は、すべて、このことに関連している。モノが主導する語から語が主導するモノへという、モノと語との逆転のパラドックス、同じく、行為と語との関係をめぐるパラドックス、「最小抵抗路線」が同時に「最大抵抗路線」でもあるという感情と意志との関係、まだ自己を認識しないが、他者を演じることによって自己を顕わにするという自他の独特な関係、想像が欠如したゆえの「状況拘束性」から想像の高次の発達の移行過程などは、ことごとく、ここで言われている「発達のあらゆる傾向」のなかに含めれ、それらが凝縮して示されているのである。

 いま1つは「遊びは、学齢期になると、抽象化、論理的思考、内言に移行する」というものである。これについては、次回の講義で述べることにしよう。


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