〔2021/05/10〕第4回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて③ 「個人内の心理機能システム」

 〔2021/05/10〕第4回 人間発達論―ヴィゴツキーにもとづいて③ 「個人内の心理機能システム」


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 なお内容的には、


①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、

②それについての従来の自分の考え、

③自分にとっての「新しさ」の理由、


 を含んでいるのが望ましい。

 また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。


《前回の授業コメントより》


*自然的発達と文化的発達の断絶、および、教育の根拠

 私が新たに発見した事実は、自然的発達から文化的発達の移行は断絶や跳躍があり、その断絶や飛躍は教育で支えるという考え方である。私は、母国や計算などの発達は自然的なものであり、文化的なものに飛躍しようとしているという考えまでには至らなかった。文化的なものへ移行するのは難しいため、教育が子どもを支えなければならず、教育というものが大切であることに気づくことができた。以上が新しいと感じた理由である。

*自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」

 自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」という発達観を新しく知りました。これは自然的発達から文化的発達への移行は直線的ではなく、そこには「断絶」と「飛躍」があるという考え方です。これについて従来の自分は自然的発達が文化的発達に変わっていくと思っていました。しかし、文化的発達は自然的発達へと付け足される「自然的発達を増大させる材料」であることを知ったので新しさを感じました。

*自己との対話について

 高次心理機能の起源の中で、他者との対話から思考へと転換する間に、自己との対話がなされていることを新たに学んだ。最初、自己との対話とはどういうことなのだろうと思ったが(※)の解説の所から理解がしやすかった。今までは知らず知らずのうちに自己との対話をし、他者との関係を私自身の内部へ取り込むことから思考へと転換していたことが講義内で納得出来た。この自己との対話は、思考を深める手助けをする役割であると思ったため、内的対話が大切な要素であると新たに学んだ。

*視覚と身ぶり

 今回の授業で、類人猿の行動が視覚に大きく左右されていることや、そのコミュニケーションにおいて身ぶりが一定の役割を果たしていることが私の新しい発見である。さらに、現代では、その視覚の強さを利用してチンパンジーに記号を理解させようとしたり、ゴリラに手話を教えてコミュニケーションを図ったりしていることも新しい発見である。人間は、行動が視覚に左右されていたり、コミュニケーションにおいて身ぶりが役割を果たしているということは、だいたい知っていたが、類人猿も同じように指示的身ぶりが大きく関係していることは、知らなかった。確かによく考えてみれば、類人猿と人間は似ているところがあり、共通点があると思う。だから実験でもこのような結果が出たのではないかと考えた。これが私が新しいと感じた理由である。

*発達における危機、大変動

 ①私が今回新たに発見した事実は、「発達の概念とは、時間というものを基軸にして人間を捉えること」だということである。それはつまり、ただ平坦・均等に過ぎていくものではなく、質的な変化・変動に満ちているのである。

②私はそれまで「発達の概念」とは何か今までできなかったことができるようになることだと考えていた。

③だが、「発達の概念」とは社会体制がひっくり返るような危機と転機の時期を何度も繰り返し、質的な変化や変動に満ちたものだということを知った。なので、今回新たに発見した事実は自分自身にとって新しいものとなった。

*質問より

 小タイトル【記憶の発達の事例から】より、低年齢から第1学齢期の間で人間の記憶量は増大するということが分かりましたが、得に第1学齢期(7~12歳)で「外的補助手段を用いない記憶」も著しい成長が見られると述べられていたので、それは例えばどういった記憶であるのか気になりました。

 〔絵カードの助けによって語をどれだけ再生できるか(記憶の媒介的、文化的発達)に対して、記憶の自然的発達は、ここでは、丸暗記によって語をどれだけ再生できるか、ということを示しています。〕

 人間では生後10か月頃から指差しは始まるが、類人猿も同じ時期に始まるのか。

 〔人間の子どもと同じような指差しは、そもそも、類人猿には成立しないのではないでしょうか。後に述べる予定ですが、類人猿においては、2項関係(道具の使用の場合のような自己―モノの関係、「あいさつ」のときのような自己―他者の関係)はあるものの、3項関係(自己―モノ―他者の関係)は成立していないようです。指差しは他ならぬ3項関係の現れなのです。〕

 文章中にあった『「庭師」の事例は言語機能の減退のなかで生じたものであり、その逆に、「熊」の事例は言語機能の発展途上で現れている。』という部分が分かりにくかったので解説を聞きたい。

 〔言語機能が崩れていき語の意味が不安定になる「失認症」の故に「庭師」を見て庭を掃除していると捉えられない、という事例は、言語機能の崩れという発症以前の健常な状態と比べれば、言語と思考が後退しているのだと考えられます。その逆に、未開人がヨーロッパの言語を新たに学ぶなかで生じていることは、未開の言語において当たり前に生じていた思考がまだ残っていることを示している。しかし、これはそのうちには(ヨーロッパの言語や教育を受けるなかで)消えていくものであろう、という意味で「発展途上の現象」だと考えることができます。〕

 高次心理機能はいつ身についたんでしょうか?

 〔分かりやすい事例を挙げるなら、低次心理機能と高次心理機能との相違は、比喩的に言えば、算数と代数の違いのようなものです。算数は最初から個別事例のなかで計算を求めます。つまり、最初から最後まで「個別性」の追究です。ところが、代数におけるx、yはあらゆる数値を表しうるものという一般性のなかで登場し、そのあとで、このx、yのこの場合の関係から、この場合の数値を割り出すことをします。この代数における「一般性」を理解できるのは中学生になってからでしょう。したがって、このあたりから、高次心理機能は発達したと考えて良いでしょう。〕

 教育をしなければ自然的発達と文化的発達との「断絶」を埋めることはできないのですか?(親の愛情からなど)

 〔「教育をしない」という選択肢は、人間の子どもに対してありえませんので、「断絶」と教育の関係を捉えるためには、まだ組織的な教育が成立していない未開人の言語と思考とか、失語症、統合失調症の発症によって、思考がどのように変化したか、を理解することが不可欠となります。こうして、「断絶」と教育の関わりを理解することができるでしょう。〕


《講義メモ》


はじめに 「人間発達の歴史的な見方」はどのようにして、実践にとって、意味を持つようになるのか。

 これまでの講義(とくに第2、3回の講義)から明らかになったが、ヴィゴツキーによる人間発達の歴史的見方は、生物進化、人類史、個人の発達史を貫いていく「自然の支配」「自己の支配」と、そのための補助手段としての道具や言語とを考察することにおいて、優れた見方であった。

 この歴史的見方は、人間を対象とする種々の実践の土台となるものの、それ以上の具体的指針となるには不十分なものであり、大まかに言えば、次の2つの点の理論的補充が必要である。

 ①言語については、個人の発達史の歴史的見方とは発生的な見方と同じであり(すでに述べた、「即自」「対他」「対自」の3つの段階に該当する)、言語に関する発生的見方とは、「外言」―「独り言」―「内言」の相互の関連をとらえることである。これは、いわば縦軸に沿った捉え方であるが、それを補うものとして、横軸に沿った捉え方、言語の構造的な見方がある。言語の形相的側面(文法、発音など)と意味的側面(語義と語のその人にとっての意味など)の関係がそれであり、その構造的な見方を外言、内言に沿って考察してこそ、実践にとってより直接的な意味が出てくるのである。

 ②思考の研究のみならず、情動の研究、さらには、人格〔個人〕の構造をとらえることが重要である。これが①の言語における構造的な見方の土台となる。

 今回の講義では、この②を中心に述べることにしよう。


I 発達法則の「説明」と具体的個人の「記述」


 保育・教育の実践においても、ソーシャルワークの実践、ケアの実践、看護・医療の実践においても、実践者の眼の前にいる人は、同じ人が二人といない個人(具体的個人)であり、その人の「研究」はなによりも「記述」「記録」として現れる。だが、研究がこの「記述」や「記録」で終わるならば、実践者は事実の海で溺れてしまうであろう。そこには「法則の発見」が必要となる。だが同時に、「法則」に事実をあてはめていくような理解の仕方は思索を貧困にする。逆に、実践はむしろ法則をより豊かにするのである。法則の発見つまり「説明」と、具体的個人の記録つまり「記述」とは、緊張関係をはらみながら、どちらも、実践者の認識と実践とを豊かにするものであろう。(今回の講義メモの最後に、自閉スペクトラム症について書いている。そこにおけるスペクトラム〔連続体〕的理解はどちらかといえば「記述」を促進するが、サブカテゴリーは自閉症の種々の法則的特徴をあらわしている。自閉症の具体的実践事例はサブカテゴリーと関連づけてこそ、有効な範囲が理解されるようになる。重要なのはこのことである。)

 ところで、ヴィゴツキーが明らかにした人間発達(個体発生)の3段階(「即自」「対他」「対自」)は、発生的法則であるが、この考えを仕上げつつあったヴィゴツキーは早くも次の理論的深化の準備をしていた。

 その1つが具体心理学(ドラマの心理学)であり、その根底にある考え方は、思考と情動との変動するシステムであった。それを図示しておこう。〔図3〕


《思考と情動の変動するシステム》

 思考と情動との関係は多様である。情動は思考をかき乱して思考の冷静さを失わせることもあれば、また、情動は思考の動機となり思考を情熱的にすることもある。思考の面から見てみると、思考が情動をうまく捉えられなくて情動の爆発が起こることもあれば、思考が情動に作用し、生存に直接に必要な情動(粗大情動)のみならず、文化的で芸術的な情動(繊細情動、あるいは、芸術的感動)を生み出すこともある。思考と情動は、システム化されるのである。


II 未開人の「心理システム」

【カフィール人の夢】

 19世紀の人類学者であるレヴィ−ブリュルは、アフリカに派遣された宣教師の記録を考察し、次のようなエピソードを紹介している。——この宣教師は、未開人であるカフィール人の族長に対して、息子をミッションスクールに入学させるように依頼した。この族長は、それについては、夢で見てみることにしましょう、と答えたのである。

 ヴィゴツキーはこのエピソードについて、現代人であれば、たいてい判断するために考えることをするのであり、思考による判断なのであるが、この族長は、思考の位置に夢を持ってきて、夢による判断としたのである。いわば、夢の心理システムである。現代人でも、占いに頼る場合には、このようなシステムと同じようなものである。

III 自己意識が成立するまでの「心理システム」

 心理システムは、ヴィゴツキーの考え方によれば、13歳あたりを基準に、いわば、自己意識の成立を大まかな基準に、それ以前と以後では、システムのあり方はそうとう違いがでてくる。

【感覚機能と運動機能の「システム」】

 人間の心の始まりには、まだシステムとは呼べないが後に心理システムにつながっていくような複数の機能の独特な関係がある。それは感覚機能と運動機能が1つに混ざりあった混淆(こんこう)状態を意味している。

 【0歳児にとって顕著なもの——音への感受性。原初的な因果関係への感受性。3項関係。】

 これらによる実践がしだいに感覚を運動から切り離す準備をしていくが、その点で決定的な役割を果たすものはことばである。

【知覚と状況。状況拘束性とそこからの脱出】

 ところで、語(word)は「一般化する」という性質があるため、感覚を知覚に変化させていく。1歳児の感覚は、ことばの習得に関連して、知覚へと変化していく。感覚と知覚との違いを(感覚の1つである)視覚をもとに説明すると、視覚は見たままの色・形・大きさ、モノの配置をそのまま捉えているのだが、知覚は意味的知覚と呼ばれるように、意味(語)による一般化された感覚(視覚)である。2歳代にはまだ「状況拘束性」(視覚が運動を引き起こすこと)があるので、視覚と状況は一体化している【これも視覚と状況とのシステムと呼べるであろう】。

 状況拘束性はチンパンジーにも見られるものであり、それは「視覚の奴隷」とも特徴づけられるが、それに似たことが2歳児にも生じている。階段があれば登ってみようとし、鈴があれば振って音をならそうとする。そのときの子どもの行為は見たものに左右されているのである。子どもがそこから脱出するのは「見立て」や「ごっこ(役)」のある遊び(イメージの遊び)を通してのことである。

【自然的記憶と論理的(意味的)記憶】

 私たちのような記憶(そのうちの自然的記憶)は、3歳代の話しことばの体系の一応の獲得を迎える頃から、始まる。自然的記憶とは特に補助手段なしに覚えることのできる記憶であり、「記憶力が良い、悪い」と普通に言われるような記憶である。ところが、記憶すべきことが多くなり複雑になるにつれて、記憶のための補助手段が作られるようになる。指を数えて計算するというのは自然的なことであるが、人間の手・指との繋がりからローマ数字が生み出されるというのは文化的な計算であろう。歴史的に考えれば、記録のためにキープ(多様な紐の結び目)がつくられ、やがて文字がつくられたように、記憶は自然的記憶のみならず補助手段を用いた記憶(文化的記憶)に発達していく。

 その記憶の特徴としては、論理的(意味的)記憶と言うことができる。ある事柄をただ覚えるというのは直接的記憶と呼ばれ、「直観像記憶」もそのようなものである。これは幼いときに見られる記憶(たとえば、小学校低学年の子どもはトランプの「神経衰弱」では大人よりも強い)である。大人はそのような記憶を失い、物事に意味をみつけて記憶する。その極端な例は電話番号などの「語呂合わせ」による記憶である。

 ヴィゴツキーはこの点について興味深い指摘をしている。記憶は思考の影響を受けて自然的な記憶から論理的な記憶(「語呂合わせ」を含む)へと変化していくが、ところが論理的記憶にもとづく思考は現実的な思考ではない、と彼は述べている。ひとつのシステムが終わり、新しいシステムが誕生することを予感させているかのようである。

 ※以上のように、感覚と運動、感覚と状況、知覚と状況、記憶と思考というようなそれぞれのシステムが形成されながら、(ある意味では内側から)システムを掘り崩し、新しいシステムを築いていく。このように心理システムも固定的ではなく発達的なのである。


IV 移行期(思春期)と自己意識の形成、それ以降の心理システム

◯13歳頃に子どもは大きく変わる(13歳の危機)。ことばの面から捉えてみると、


 ①6歳代に独り言が大きく減じていく(約半分に——ピアジェのデータ)なかで、(ヴィゴツキーの考察によれば)独り言と同じ機能(自己のためのことば)をもつ内言が成長してくる。内言とは自己に向けたことば、いわば「内なることば」であり、音声を失ったことばである。

 ②その内言は最初は意識されないが、13歳の危機を越えると、意識されるようになる(自己意識の形成につれて)。いわば内言の意識化である。

 ③誕生から続いている他者との会話・対話は、相手のことば・自分のことばを意識するにつれて、ことばは内言として蓄積されてくる。

 ④こうして、他者との対話が自己との対話(内的対話)として継続され、そのように他者と交わるなかで自己を意識するようになる(自我および第2の自我の誕生)。

 ⑤それ故に、自己の認識は、同時に、他者を理解すること(自己にとっての他者)を伴っている。

 ⑥それとともに、自己の認識は、ただ客観的な世界だけではなく、自己にとっての世界をも認識するようになる。


 以上のうちで、④⑤⑥が自己意識の形成の内容を表している。いわば、ことばを軸にして、自己、他者、世界を内面化する(自己にとっての◯◯)、という内容である。


◯意識と自己意識について。

 13歳の危機(分裂機能〔区別する機能〕の形成)と移行期(13-17歳)において自己意識が形成されるまでと、形成のあととでは、子どもの発達も心理システムも大いに異なっている。ルソーは15歳くらいの少年期について人間の「第2の誕生」と呼んだが、私は第1の誕生は意識の誕生、第2の誕生は自己意識の誕生であると考えたい。

 したがって、自己意識の成立とは心理システムを自覚することでもあるので、システムの変動のモメントに自己意識も加わるようになる。これが、自己意識の成立以前と成立後との相違である。


 以上のような自己意識が一応のところ形成された後になると、心理システムは、一方では様々な心理機能のなかでシステム化が広がり、他方では、柔軟になるように思われる。その具体的事例を上げておこう。

 私たちは、表象(イメージ)とは何か、情動とは何か、思考とは何か、想像とは何か、という問題を考えるとき、それぞれバラバラに考えがちであるが、それらをつなげて考えるのが「心理システム」の捉え方である。


《思考、情動、想像のシステム》

 この3つの心理機能について、ヴィゴツキーは以下のような3種類のシステムを上げている。これはすでに大人の心理システムである。

★現実的思考 思考→想像→情動 〔とりあえず事柄を捉える思考。それが想像と結びつくことによってその事柄が他の諸事物との様々な関係のなかで捉えられるようになり、おおよそ、それが完了するとき「わかった」と満足が得られる。〕

★自閉的思考 想像→情動→思考 〔主観的な情動に左右される自閉的思考は想像から始まる。その想像が情動に左右されて、それが情動に彩られた思考となる。芸術家的な心理システムもこのようなものであろう。〕

★創造的(発明的)思考 想像→思考→情動 〔発明家が作図をしようとしているときを思い浮かべてみると、この創造的思考もまた想像から始まるが、その想像を具体化するために思考が影響を与える。これによって新しいものが生まれ、満足が得られる。〕


《表象(イメージ)と情動のシステム―演劇論》

 20世紀を代表する演劇家の1人、スタニスラフスキーは、俳優の演技を内面的で適切な感情に彩られたものにするにはどうしたらよいかを考えた。彼が辿り着いた結論は次のものであった。まず、①作中人物のその場面での感情に類似した俳優自身の感情を表現することである。ところが、②およそ感情というものには「命じる」ことはできない、つまり、◯◯という感情よ、出てこい、などということは成り立たないのである。したがって、③残された手段は、自分自身の◯◯という感情がかつて生まれた状況を想像しイメージすること(表象すること)によって、その感情をおびき出すことである。

 この③が、表象と感情という異なる心理機能のあいだをシステム化すること、つまり、2つの心理機能の心理システムなのである。そう指摘したのはヴィゴツキーの卓見であった。


V 具体的個人を捉えるために

【「心的体験」について】

 ヴィゴツキーは、類―種―個というカテゴリーの階層(たとえば、人類または人間、その下位概念である種々の属性、さらには個人)のうち、「種」や「個」を捉える概念として「心的体験」を用いている。

 同じ出来事でも、年齢によって「体験」内容が異なることを、出来事そのものは同じでも、そこから受け取る情動が異なることを「心的体験」の概念で捉えた(ヴィゴツキー「児童学における環境の問題」『「人格発達」の理論』土井・神谷監訳、2012年)。

 また、ことばで分析し理解するよりまえには、状況を体験する、という言い方で、「心的体験」が特徴づけられている(ヴィゴツキー『少年・少女の児童学』1931年、邦訳は『思春期の心理学』)。


◯情動と脳

 情動は、喜び・恐怖など生命の維持に直接にかかわるものであり、古い脳にその中枢をもつ(皮質下中枢)といわれる。情動はそのように皮質下中枢によってコントロールされるとともに、新しい脳(大脳皮質)によってもコントロールされる。

 たとえば、私自身の次のような事例を考えてみよう。

①外国の都市の地下鉄を降り、たまたま間違えて、いつもとは違う出口から地上に出たとき、いつもとは違う(予想とは違う)光景を眼にして、言いしれぬ恐怖を味わうことがある。「ここはどこなのか」と。

②しばらく辺りを見回して、見慣れたビルを違う角度から見ていることに気づき、出口を間違えたことを悟る。

 ①は原始的な低次の情動を味わっていることを意味するが(ヴィゴツキーのいう「心的体験」に近い)、②はそれよりも高次の情動を示している。このように、情動は新旧の脳による二重のコントロールを受けていることがわかる。ここから、脳内には階層やシステムが構成されていると仮説を設けることができるであろう。


【自閉スペクトラム症の場合】

◯カテゴリー的理解とスペクトラム(連続体)的理解

 自閉症について、カテゴリー的理解からスペクトラム(連続体)的理解へと変化していった契機のもっとも大きなものは、アメリカ精神医学会の診断・統計マニュアル(DSM-5、2013年)において、スペクトラムの考え方が採用されたことであった。その背景には、カテゴリー的な診断が難しいことがあった。

 DSM-5では、①社会的コミュニケーションや対人的相互反応、②行動、興味、活動の限定された反復、が自閉スペクトラム症の主要な障害とされている。それに至る努力のなかに重要な視点が含まれている。

◯スペクトラムとサブグループ

 最初に自閉症にスペクトラム(連続体)の観点を導入したのは、イギリスのローナ・ウィングであった(ローナ・ウィング『自閉症スペクトル――親と専門家のためのガイドブック』久保紘章他訳、東京書籍、原書の出版は1996年、邦訳1998年)。彼女は、「自閉症スペクトル障害」は広範囲の現象を指すので、サブグループを探し出すことが必要となるが、そこに難しさが存在する。たとえば、アスペルガー症候群とカナー症候群とは全体としてみれば異なっているが、前者の特徴におさまる人、後者の特徴におさまる人もあれば、それらにおさまらず両者の特徴を併せ持つ人もいる。おそらく、そのようにカテゴリー的な分析は現状では十分な分類に適していないということから、スペクトラムの観点が生まれたのであろう。

 ローナ・ウィングは、スペクトラムの観点から自閉症を捉えたときに、診断的意義をもつ主たる行動を、①社会的相互交渉の障害、②コミュニケーションの障害、③想像力の障害、④反復した常同的動作、の4つを上げている。

 やや遅れて、サイモン・バロン=コーエンの研究では(サイモン・バロン=コーエン『自閉症スペクトラム入門』中央法規、水野薫他訳、原書は2008年、邦訳2011年)、「社会的コミュニケーションの障害」と「反復的行動/狭い興味」との2つを自閉症スペクトラムの特徴としている(ローナ・ウィングの①、④。DSM-5による自閉スペクトラム症定義と同様なものである)。

 スペクトラムのサブグループはいっそう緻密に示されている。彼は、知的水準(IQ)とことばの遅れの有無(遅れの基準は、単語を2歳で表出しない、文を3歳で表出しない)とによって、次のように分類している。

 アスペルガ−症候群 IQ85以上でことばの遅れがない。

 高機能自閉症 IQ85以上でことばの遅れがある。

 中機能自閉症 IQ71〜84でことばの遅れがあったりなかったりする。

 低機能自閉症 IQ70以下でことばの遅れがあったりなかったりする。

 非定型自閉症 非定型な発症の遅れか、2つの特徴(知能の状況とことばの遅れ)の1つしかない。

 特定不能の広汎性発達障害 アスペルガ−症候群や自閉症の診断基準に明確に適合するとは言い切れないものの、普通より多くの自閉症の特徴がある。


◯自閉症スペクトラムの図

 〔バロン=コーエンによる〕

  「正常」な集団            PDD-NOS 非定型   AS   自閉症

←――――――――――――――――――→←―――→←―――→←―――→←―――→

           〔PPD-NOS:特定不能の広汎性発達障害、AS:アスペルガ−症候群〕


◯診断と治療・保育・教育との「矛盾」

 ところで、スペクトラムの考え方にもとづく診断と、治療・保育・教育(などの働きかけ)との「矛盾」らしきものを指摘しておこう。

 治療・保育・教育の方向は診断に基づくものと考えると、不安定な尺度では、その子どもに対して正確な方向を取ることができない。その意味でまだ不安定なカテゴリー的尺度は採用しない方がよいであろう。

 スペクトラム(連続体)という考え方は、自閉的傾向は「一人ひとり違う」という考えに導くものであり、それ自身は個人を尊重することに繋がる。この考えは、子どもを理解するという側面においては(ある意味では自閉症以外においても)ある程度、有効であると考えられる。ただし、自閉的傾向のある子どもに対するある実践がどの範囲の子どもにも有効であるのかがわからなくなる。ここに「矛盾」がある。

 たとえば、東田直樹君の話しことばの事例(東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由——会話のできない中学生がつづる内なる心』エスコアール、2007)

〔その英訳には、次の本がある。——Naoki Higashida, the Reason I jump: One boy’s voice from the silence of autism, Translated by KA Yoshida & David Mitchell, Sceptre, UK, 2013/2014〕)

 ・会話ができないとはどういうことか。——「僕は、今でも、人と会話ができません。声を出して本を読んだり、歌ったりはできるのですが、人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです。必死の思いで、1〜2の単語は口にだせることもありますが、その言葉さえも、自分の思いとは逆の意味の場合も多いのです」(「はじめに」p.2)。

 ・それの本質的な改善として、「文字盤」「キーボード」。——「僕が自分の意志で筆談ができるようになるまで、長い時間が必要でした。鉛筆を持った僕の手を、お母さんが上から握って一緒に書き始めた日から、僕は新しいコミュニケーション方法を手に入れたのです」(pp.12-13)。「自分の力で人とコミュニケーションをするためにと、お母さんが文字盤を考えてくれました。文字を書くこととは違い、指すことで言葉を伝えられる文字盤は、話そうとすると消えてしまう僕の言葉をつなぎとめておく、きっかけになってくれました」(p.13)。

 ・これは、どこまで他の自閉症児に応用可能なのかはストレートに言うことができない。

※ただし、翻訳者の1人デイヴィッド・ミッチェルは、この本を通して、自閉症のわが息子を初めて理解できたと思った、と書いている。

《It felt as if, for the first time, our own son was talking to us about what was happening inside his head, through Naoki’s words.〔直樹のことばを通して、わが息子〔自閉症の〕があたかも自分の頭の内側で起こっていることを私たちに語りかけているかのようだ、と、初めて感じられたのである。〕》p.8

 つまり、東田くんの経験は海外においても意味があることを示している。しかし、あらゆる自閉症児に意味があるのか、また、東田君の経験のどの部分が意味をもつのかは、厳密に考察しなければならない。

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