〔2021/06/21〕第10回 社会的実践と個人―対話について① 「フェイス・トゥ・フェイスの意味」
〔2021/06/21〕第10回 社会的実践と個人―対話について① 「フェイス・トゥ・フェイスの意味」
《お知らせ》
◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、
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bukkyo.bukkyo2017@gmail.com
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「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
なお内容的には、
①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、
②それについての従来の自分の考え、
③自分にとっての「新しさ」の理由、
を含んでいるのが望ましい。
また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。
《前回の授業コメントより》
*成層理論について
私が今回発見した事実は、失語症の言葉の変調と概念の崩壊として、「錯語」という概念と語の食い違いが見られ、一般的な意味の語から覚える、という子どもによる語の特徴からも分かるように、共通表象としての概念には発達的な断層があるという考えだ。失語症患者が一番先に失う音は、幼児が一番遅れて取得する音であり、幼児が一番先に取得する音は失語症患者においても一番後まで保存されるという、ヤーコブソンの幼児言語と失語症患者の言語は「鏡の像のような関係」であり、層に沿って崩壊するという、言語の音韻体系を支配する法則の研究もとても興味深かった。
これまで、子ども達が言葉を「全体から部分」という方法で話すことがあるということは知っていたが、その特徴に似た症状が失語症の錯語という形で現れてくるとは知らなかった。このような人間の発達と崩壊を同時に考察することで、人間発達を真に理解しようとする考えは非常に新しく感じられた。
*統合失調症と概念の崩壊
今回の講義メモで統合失調症は概念形成の時期に発症し、概念の崩壊をもたらし、自己意識と概念を後退させていくことを知りました。
昨年他の講義で統合失調症患者の映像を見たことがあるが、具体的にどういった経緯でこれらの症状が見られるようになるか詳しく知りませんでした。
しかし今回の講義で統合失調症は、概念の崩壊が起こることで妄想や幻覚、まとまりのない発話等が見られるようになることを学びました。
*低次中枢の活動と高次中枢の活動
私が今回新たに知った事は、低次中枢の活動は高次中枢の活動による抑制的影響を受けており、疾患や損傷により高次中枢の機能が弱まった時に、低次中枢が自立性を持つということです。高次中枢と低次中枢はそれぞれに存在しており、それぞれに活動をしているのだと考えていましたが、高次中枢が発達するにつれて低次中枢で行われていた活動は高次中枢が担うようになり、低次中枢ら高次中枢の従属機関として、抑制的作用を受けながら活動をしているということが分かりました。また、お酒を飲んでひどく酔った時と精神疾患の時が同じようなメカニズムだということに驚きました。ひどく酔っている人が我を失っているような状態は、概念形成に伴う自他の区別が曖昧になっている状態ということなのかなと考えました。
*失語症と想像力、意味づけ
①今回の授業で新たに発見した事実は、失語症から想像力が減退してしまうということです。見ているものやことと意味との矛盾を敢えて作り出し、想像力を捉えようとした時、失語症のある人には想像力の減退が明らかとなります。また、見たものやことの意味づけが喪失している場合もあります。
②失語症は「聴く、話す、読む、書く」などといった言葉に関する機能に影響が出ることだと聞いたことがあります。なので今までは、話を聞いても何か分からなかったり、自分が言おうとしている言葉が分からないといった症状が起こることだと思っていました。
③しかし、それは想像力が減退してしまったり、意味づけが喪失してしまうことからによって、起こる症状だということを理解しました。これが私にとっての「新しさ」の理由です。
*一般的なものと部的なものの関係―語の習得と崩壊
①私が今回新たに発見した事実は、本来子どもはひとつの言葉を覚える時、「全体」から「部分」(花→バラ)のように覚えるが、「錯語」の場合、言葉を「部分」から「全体」のように捉えてしまうことがあることである。「錯語」とは脳内出血の後遺症のひとつであり、言葉を「部分」から「全体」のように捉えてしまうため、「消しゴム=えんぴつ」「文房具=えんぴつ」「定規=えんぴつ」といった形で記憶してしまう。
②それまで私は「錯語」の特性はもちろんのこと、「錯語」という言葉も言葉の意味も知らなかった。
③だが、今回の講義で「錯語」は脳内出血の後遺症のひとつであり、言葉を記憶する際に概念と語の食い違いが生じてしまうものだということを知った。新しい言葉とその特性を学んだことが私にとっての「新しさ」となった。
*質問
幼児が習得しやすく失語症患者が忘れにくいとされている母音、子音でa,i,uやp,m,t,nが先に習得されやすいのは発音しやすいからですか?
〔「発音しやすい」ということを深めてみましょう。ヤーコブソンが言っているのは世界の言語に共通する音から幼児は習得し失語症患者には最後まで残りやすいということです。私は、言語の音は確かに社会的な形成物ではあるとはいえ、万国に共通するという意味で、純粋ではないにせよ自然的な形成物であるからだと考えます。幼児が最後に習得し失語症患者が最初に失う音はその社会に特有な形成物、たとえば、フランス語における鼻母音は、より強い社会的な形成物と考えることができるでしょう。このように、自然的形成物としての要素が強いのか、社会的形成物としての要素が強いのか、の相違にもとづいていると思われます。〕
失語症患者のリハビリはどういった方法があるのですか。
〔ヤーコブソンの言説のなかに、失語症患者の言語回復過程は、子どもの言語習得が高速フィルムで映し出されるかのようである、という指摘があります。たとえば、絵を示してその語を言わせるというトレーニングはよくあるようです。その場合、絵を見て習得した語しか習得しないというわけではなく、その絵と語とが刺激になって、それ以外の語も回復される。これも、子どもがある語を聞くと、それを応用して新しい語を習得しようとするのに似ています。〕
錯誤に関して子どもは花という一般的な意味でバラという言葉を用いても、周囲との関わりのなかで意味の誤りに気づき正しい意味でバラという言葉を用いることができるようになっていくと思うのですが、脳内出血の後遺症の影響を受けた錯誤も同じように時間が経ち周囲との関わりが増える中で徐々に改善されていくものなのでしょうか。
〔脳内出血の場合、手術が早いかどうかによって、回復がかなり左右されます。つまり、出血によってダメージを受ける脳の部分の「補償」となる脳内の新しい結合をつくりだすのがリハビリの役割だと言えますので、ダメージの部分が少ない方が回復しやすいからです。なお、「錯語」という障害は脳のウェルニッケ野、ブローカ野という部位のダメージによって種類が異なってくるようです。〕
《講義メモ》
はじめに
【今回から6回の講義:「社会的実践と個人―対話について」】
「対話」の考え方と実践は、現代社会において、著しく変革的な意義を持っている。しかも、それらが紀元前5世紀に活躍した哲学者のソクラテス(470 b.c-399 b.c)が探究した対話の意味を持てば持つほど、現代的となり、変革的となると思われるので(これは次回に述べたい)、このことはきわめて興味深いことである。「社会的実践」と書いたのは、具体的には、保育と教育(13回)、精神疾患とその支援(14回)、災害と地域復興(15回)を事例としたい。それらを貫く視点としては、個人と対話である。
毎回の講義の予定は以下のものである。
〔2021/06/21〕第10回 社会的実践と個人―対話について① 「フェイス・トゥ・フェイスの意味」
〔2021/06/28〕第11回 社会的実践と個人―対話について② 「対話の原理」
〔2021/07/05〕第12回 社会的実践と個人―対話について③ 「内的対話」
〔2021/07/12〕第13回 社会的実践と個人―対話について④ 「子どもと対話」
〔2021/07/19〕第14回 社会的実践と個人―対話について⑤ 「治療と対話」
〔2021/07/26〕第15回 社会的実践と個人―対話について⑥ 「危機的事態と対話」
【対話を扱う諸学問】
コミュニケーションとその1つの形式である対話は、社会をつくって生活するという人間の本質に深く根ざした活動である。対話を扱う学問は、哲学・言語学・言語心理学さらに言語をめぐる諸実践を研究する教育学などである。
哲学のなかでは、上述したように、ソクラテスの対話論からはじまる。ところで、ソクラテスは1冊の本も残さなかった(彼の弟子たちがソクラテスのことばとして書いたものが残されているのみである)ので、残念ながら、確定的なことは言いにくく、多義的な解釈を許容している。現代の対話論に影響を与えている理論家がどのようにソクラテスを見ているのか、という点が、実際的には重要となろう。バフチンは言語・文学の研究者であるが、ドストエフスキーの小説のなかにある対話の原理を取り出しつつ、それを一般化している。その過程で、ソクラテスの対話論も考察の対象にしている(『ドストエフスキーの創作の問題』1929年、『ドストエフスキーの詩学の問題』1963年)。物理学者のデヴィッド・ボームはコミュニケーションの語源をラテン語から、対話の語源を古代ギリシャ語(dialogos)から引き出して、自己の対話論を展開している。さらに、おそらくはボームの著作を参考にしながらであろうが、劇作家の平田オリザは、戯曲において対話を書くという立場から、コミュニケーション、ディベート、対話などを考察している(『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012)。これらから学ぶことは大いにある。
19世紀に誕生した言語学は当時、文字や文献を材料にして発展してきた。ラテン語、古代ギリシャ語、サンスクリット語の比較(印欧語族)、これらに共通する「祖語」の「再生」が誕生したての言語学の課題であった(参照:風間喜代三『言語学の誕生—比較言語学小史』岩波新書、1978年)。たしかに、この時点では言語学にとって対話の研究とは縁が薄い。ところが、20世紀に入ると、言語学では音を材料にした研究が盛んになった(例えば少数民族の言語の研究。参照:田中克彦『言語学とは何か』岩波新書、1993年)。こうした研究がカバーする領域が広がるにつれて、対話も言語学の視野のなかに入ってくるようになった。その初期に属するものとしては、ヤクビンスキーの論文「ダイアローグのことばについて」をあげることができる。
言語心理学は、子どもを直接の対象にした研究であるか否かにかかわりなく、子どものことばの考察に関連してくる。とくに、ピアジェ(Jean Piaget、1896〜1980年)とヴィゴツキー(Лев Выготский、1896〜1934年)のそれぞれの理論は、子どものことばを考える上でも、今日まで大きな影響を与え続けている。もし、もっとも大きな事実的発見とその理論づけを挙げるとすれば、独り言(自己中心的言語)と内言(内的言語)とである。この二つの事実・理論には、ピアジェもヴィゴツキーも絡まり合いながら、それぞれが異なる考え方を表明している。
ことばは人間が行うあらゆる実践に多かれ少なかれ関与しているので、視野に入れるべき実践は、ことばを対象にした実践(例えば国語教育の実践)だけではない。ことばと関連してくる実践は、ある意味では、すべての実践―あらゆる年齢の人間を対象にした実践、障害・疾病の有無にかかわりのない実践、それらにかかわりのある実践(たとえば、言語障害に対する様々な実践、失語症患者のリハビリのような言語に直接に関与する実践、さらには、発達障害のように間接的に関連する障害への実践)、等々である。この講義でとりあげるのは、その一端である。
※今回の講義では、言語学のなかでおそらく「対話」についてもっとも早く考察したヤクビンスキー「対話のことばについて」(1923年)を一部紹介しながら、対話の持つ共通の特質(幼児のことばにも通じる)を述べてみたい。あらかじめ結論を要約しておくと、それは、対話の多くは発話する人の顔が見えるということ(フェイス・トゥ・フェイス、face to face, en vis-à-vis, лицом к лицу)、それがことばに表す影響についてである。
I 表情・身ぶり・イントネーション——対話のなかに含まれる「語ではない」(ノン・ヴァーバルな)要素
対話はけっして、2人のあいだでなされるだけではない。しかし、2人のあいだでなされることが典型的な対話であり、そこから分かりやすい形で、特徴をとりだすことができる。その1つは「フェイス・トゥ・フェイス」という形式であり、もう1つは相互の「応答性」である。
【対話において「眼に見えるもの」】
対話は多くの場合、ことば(より正確には語)だけで出来ているのではない。私たちは、対話とか話し合いとかと言えば、語のやりとり(交換)と考えがちである。それはたしかに間違っていないが、対話のなかには「語ではない」要素が含まれている。対話を2人のあいだで顔と顔とつきあわせたものとすると分かりやすいのであるが、語とは異なる要素の代表的なものは、表情・身ぶり・イントネーションである。しかも、それらは、語の飾りのようなものではなく、本質的に重要な役割を果たしている、と考えられる。これらは厳密に言えば、「感覚」と「ことば」との中間にあるものだ。
【表情・身ぶり・イントネーションの役割。統覚】
そうした表情・身ぶり・イントネーションは対話においてどのような役割を果たすものなのか。
いま相手は真剣に話しているか、いい加減に話しているかは、顔を見ていたらわかる。熱をもって語っているか、冷めて語っているかは、アクセントやイントネーションでわかる。つまり、比喩的に言えば、「ことばが眼に見えるようになり」(表情・身ぶり)、「ことばが耳に聞こえるようになる」(イントネーション)、という積極的な役割を果たすのである。したがって、表情や身ぶり、イントネーションはたんなることばの付属物ではない。言いかえれば、私たちにとって、これらの表情・身ぶり・イントネーションを通して、ことばが理解しやすくなるのである。
もちろん、そのような積極的な役割を果たすのは、個々の知覚(視覚、聴覚など)が単発で果たすのではなかく、知覚の統一的全体によって準備されている。それが、いわゆる統覚である。
【相互の応答性】
これも、2人の対話において、すぐにわかる特徴である。対話は一方が話し手で、他方が聞き手ということはない。ほぼすべてが、相互の応答によって成り立っている。それが可能となるのは、次のような条件があるからである。
①「いま、ここにいる」ということから状況が共有されている(たとえば、昼食後の空き時間)。また、話題が共有されている。
②ここから、次に話すことの動機をお互いに作り合っている(ある応答が今度は相手の応答を呼ぶ)。
③対話の多くの場合、ことばのテンポが速い(たとえば、書きことばと比べて)。
④お互いに完全な文で応答しあうことは少なく、語の省略が目立つ。しかし、相手の言うことがよくわかる。
【「2人のあいだ」だけとは限らない対話】
以上のような特徴は、向かい合った2人の対話において、典型的に現れてくるが、かといって、「2人のあいだ」だけでしか対話は成り立たないわけではない。
ゼミで学生の1人が研究発表し、ゼミ生と教員がそれに耳を傾け、発表後に話し合う、というような、ごく普通のゼミ風景を想像してみよう。私が思うには、研究発表後の話し合いだけが対話というわけではなく、研究発表時も対話が成り立つ場合がある。たとえば、①発表している人の顔が見え、ことばにイントネーションがあることのために、仮にその人が書いた原稿があって、それと比べてみても、発表者が言おうとすることがよくわかる。②発表者の主張に「その通りだ」とか「そうかなぁ」とか「ここはわからない」とかと、聞き手は声に出してはいないが、自分の内面で「応答」している。ここに、人の話をよく聞くこと〔傾聴、active listening〕の意味がある。とくに、この人はなぜこのような考えを持つようになったのか、を考えながら、話を聞くとき、発表者の発言はいつまでも聞き手の記憶に残るものとなる。
これも対話である。話し手(発表者)にとっては声を出した「外的対話」であるが、聞き手にとっては「内的対話」である。
II 話しことばの特色と書きことばの特色
【対話における話しことばの特色・書きことばの特色】
私自身の1つの体験を書いておこう。
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ある朝、大学に行くバス停でのことである。そこでたまたま私は同僚と出会い、あいさつを交わしていたが、この同僚は急に質問を投げかけてきた。
「ご存知のように、日本語の『自由』は英語ではフリーダム(freedom)、リバティ(liberty)の2つの語で表される。ところで、君がやっているロシア語ではこのあたりはどうなっているのかな?」
私——「ロシア語で自由を表す語はスヴァボーダ(свобода)ですが、正確を期すために辞書で調べておきましょう」と答えて、その日の夜、辞書を引いてみた。
英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語で「自由」の語を調べてみると、①英語においては、フリーダムは12世紀以前から使われていた古英語であること、他方、リバティは14世紀にラテン語libertasから転用されたものであること、②ロシア語のスヴァボーダは、英語のフリーダム、リバティのどちらの意味をも持っている、③フランス語のリベルテliberté④ドイツ語のフライハイトFreiheitも、英語のフリーダムとリバティの両方の意味を持っている、とある。②〜④は露英、仏英、独英の各辞典による。また、広辞苑(第6版)の「自由」の項目にも、英語のフリーダム、リバティの2語に相当すると書かれている。
翌日の朝、同じくバス停にて、以上のことを伝えた。同僚は一瞬黙っていたが、「英語に比べたら日本語の『自由』は曖昧だと思っていた」と答えられた。言外に、英語以外の外国語も「自由」を表す2種類の語があり、それに対して、日本語は相当に曖昧なことばだ、という考えが込められているようだった。
私――「しかし、紹介した5つの言語のうちで、『自由』の意味を持つ2種類の語をもつのは英語だけなので、英語はむしろ特殊ということになりますね。」
私が言いたいことは、どの言語が厳密な意味をもっていて、どの言語が曖昧な意味しかもっていない、とは言えないのであって、およそ、ことばには数学的な厳密さはなく、むしろ曖昧なところに意味がある、ということであった。
だが、この対話で重要なことは、私も同僚も、予期していなかった新しい考えが生み出されたということである。日本語のことばを英語のことばと比較するだけでは不十分だということは、私も同僚も、この対話を通して気づいたことであろう。
私のなかで起きたことを振り返ってみよう。それは何種類もの思考である。
①同僚はなぜ、そのような質問をしたのか、その動機はなにか、という考察。英語に比べて日本語は曖昧な言語だ、という言語観から質問が生まれているのではないか。
②辞書を調べるなかで、自由を意味する語が2つあるのは英語だけであることを「発見」。これは事実的思考である。
③この点では、むしろ英語が特殊な言語であり、他の諸言語は一般的だと考えられる。これは論理的思考である。
④言語学とはもともと比較言語学から始まった、とは、こうしたことも含むのかもしれない、と思索。「祖語」と現代の諸言語、たとえば、ラテン語とフランス語・イタリア語・スペイン語など、という具合に、比較可能である。こういうところから言語学は始まった。
以上は私自身の私的事例である。だが、このような内的思考があって対話が新しいものを生み出すと考えるべきであろう。
なお、フリーダムは絶対的自由というような意味合いが強く(たとえば、アカデミック・フリーダム〔学問の自由〕)、リバティは拘束や抑圧からの解放という意味合いが強い(たとえば、「自由の女神」とは大文字のリバティ)。前者が無前提な自由であるのに対して、後者は拘束・抑圧を暗に前提にしてそこから脱却した自由である。
分かりやすく言えば、フリーとは「無料」という意味もある。ある品物が無料であるなら、経済状況がどうれあれ、万人がそれを手に入れることができる。これが絶対的自由の1種類である。
100円の品物について皆が「値下げを」の声をあげて、どうにか50円になった。品物が2倍購入できるわけだから自由が増大した。これがリバティであろう。しかし、それでも購入できない人がいるので、この自由はまだ絶対的なものではない。
このように考えると、フリーダムとリバティとの違いがわかりやすいかも知れない。日本語の「自由」はこの2つを含んでいるが、それを曖昧だと言うのではなく、そもそもことばはそうした曖昧さがあるものなので、たえず意味を狭めたり深めたりすることが必要であること(これは何語に限らず)を自覚すべきであろう。
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この事例はすべてが話しことばで展開されているので、その特徴を言う必要はないであろう。だが、書きことばに特有なものもそこにはある。たとえば、
《翌日の朝、同じくバス停にて、以上のことを伝えた。同僚は一瞬黙っていたが、「英語に比べたら日本語の『自由』は曖昧だと思っていた」と答えられた。言外に、英語以外の外国語も「自由」を表す2種類の語があり、それに対して、日本語は相当に曖昧なことばだ、という考えが込められているようだった。》
「同僚は一瞬黙っていたが」という箇所は、どちらかといえば、書きことばを書いたり読んだりしているときに頻繁に起こることである。外に(相手に)向かっていた「ことば」が急に自分に向かってくる。ここに、いままでの自分の習慣的な考え方を見直す瞬間が見て取れる。自己の思考のために、いままでの応答のテンポから逸れていく予兆がここにある。
【交わりの直接性・間接性とことば】
もう少し全体的に、人間の交わり(交通)とことば(話しことばか、書きことばか)の関係について、言語学者のヤクビンスキーの考え方をもとに、考察しておこう。
まず彼は、交わりを「直接的形式」と「間接的形式」とに大きく分類し、さらに、その各々に典型的な要素を分類していく。すなわち、「対話的形式」か「独話的形式」か、「口頭的(話しことばの)形式」か「書記的(書きことばの)形式」か、の分類である。これを一覧にして対比すると、次のようになる。
①交わりの直接的形式—対話的形式—口頭的形式
②交わりの間接的形式—独話的形式—書記的形式
それぞれの一覧は、典型的事例を表しており、たとえば、①は「フェイス・トゥ・フェイス」の交わり、②は手紙による交わり、である。さらに、これらが産み出すものは、①が「ことばの自動化」、②が「新しい語(考え)の創造」であろう。
【現実に多くあるのは中間的形式】
ところで、上記の一覧の各々は、純粋で典型的な繋がりなのであって、現実の「交わり」はそれぞれの項が程度の違いはあるが混ざりあっている。つまり、交わりの「直接的形式」と「間接的形式」、「対話的形式」と「独話的形式」、「口頭的形式」と「書記的形式」の、それぞれの混合である。
ヤクビンスキーが挙げている諸事例のうちで交わりの中間的形式をよく表しているのは、小さな集会における報告者と聴衆との関係である。報告者はあらかじめ準備した内容にそって息の長い発話をするのであるから、その発話は独話形式のことばである。それと同時に、聴衆の視点からすれば、報告者の顔や声から、ことばとともに表情・身ぶり・イントネーションを感知し、そのことばが理解しやすくなる、という点において、直接形式の交通がそこにはある。だが、これは、視点をかえれば、聴衆は報告者に対して応答する形で耳を傾け、「この応答性は、報告を聞くことに伴う内言において表現されている」(同上、第27節、p.32)のであるから、この独話形式のことばは同時に対話形式のことばでもある。
これらは先に上げたゼミ風景と似ている。(i) 報告のことばは独話形式のことばであるのに、聞き手は何らかの無言の応答をしているので対話形式のなかにいる、(ii) 報告はペイパーにせよスクリーンにせよ書記的形式のことばを用いているが、報告が終われば、口頭形式による相互応答になる、(iii) こうした研究発表と討論は人数が少ない時には交わりの直接性が強くなり、人数が多くなると直接性が薄らいでいく、(iv) 全体としてみると、発表者や参加者の真理追究の意欲にかかっているが、各人にとって「あたらしい考え」が浮かんでくるのである。
III 本能的、自然的な現れとしての表情・身ぶり
もう一度、直接的な交わりに典型的に現れる「表情・身ぶり」という視覚的なものの問題に戻ることにしよう。この問題の重要な点は、なぜ、かくも広範に交わりや話しことばにおいて「表情・身ぶり」が現れるのか、ということにある。
【なぜ表情・身ぶりが対話にはつきものなのか】
ヤクビンスキーによる説明は幼児の事例にもとづいている。幼児は、自分で発話をするようになる前に、話し手の顔を見ながらことばを聞いている。ヤクビンスキーはそのことについて次のように書いている:
「私たちは本能的にお互いを見ながら話している。子どもは、しゃべって返答を待つとき、手で母親の顔の向きを変える。まさしく、会話するときにお互いを見ようとする・この本能的志向は、こうして、理解のあらゆる可能性を用いるのに役立つようになったし、私が思うには、懇談のための場所である客間で誰かに背を向けて座るのは『無作法』であるとする習慣の原因の一つであろう。」(「対話のことばについて」第3章・第19節)。このように、ヤクビンスキーは表情・身ぶりが対話につきものであるのは、それが「本能的志向」であるから、と言う。
【フェイス・トゥ・フェイスの基礎にもなる「3項関係」】
その例証になるものは、すでに述べた、いわゆる「3項関係」の成立であろう。
人間の子どもは9か月ころから、大人が扱っているモノとともに大人の顔も見ている(自分—大人—モノという3項関係の成立)。チンパンジーの子どもの場合には、基本的に、自分—モノという2項関係である。〔平田聡『仲間とかかわる心の進化——チンパンジーの社会的知性』岩波科学ライブラリー、2013年、p.51〕。
モノを扱う手の動きを見る時に、同時に、その手を動かしている大人の顔も見ている。手の筋肉が働いているのではなく、働いているのは人間である、という言葉がある。また同様に、考えているのは思考ではなく、人間である、という言葉もある。表情・身ぶりの問題は、そのような哲学的な問題もはらんでいる。
【映画・テレビドラマにおけるクローズ・アップ】
映画やテレビドラマの脚本の中心は、ことば(より正確には対話のことば)であるが、実際の作品において観衆を惹きつける要点は、あるシーン、あるいは、その作品全体を特徴づけるようなことば(たとえば、「狂っているのはアタナではなく、時代である」〔映画『スパイの妻』2020年〕)だと場合もあるが、俳優の無言の相貌(そうぼう。顔の表情)が要点になる場合がある。脚本家の倉本聰は、北海道の医療従事者に連帯を表明し、感謝を伝えるために、3分あまりの短編動画を作成した。倉本はスタッフに、「この人の映像はもっとあるかい?」と尋ね、見る人に「感情移入」の手がかりを提供しなければならない、と語っていた。その対象となったのは、この看護師の相貌であった。
◯https://www.youtube.com/watch?v=w_1or0ruvEg
◯NHk札幌放送局作成の解説 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210329/k10012942171000.html
なお、ラジオドラマにおいて、このような相貌のかわりになりうるものは、擬音であろう。
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