〔2021/07/12〕第13回 社会的実践と個人―対話について④ 「子どもとの対話」
〔2021/07/12〕第13回 社会的実践と個人―対話について④ 「子どもとの対話」
《お知らせ》
◯この科目の評価ですが、これまでに提出していただいた「授業コメント」をいわゆる「期末レポート」と見なして、評価いたします。したがって、学期末に追加でレポートを課すことはしません。
◯この講義に対する受講者によるアンケートは最終週にアクセスし、提出してください。
◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、
https://kyouikugenron2021.blogspot.com/
に掲載します。このブログを読むためには、タブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。
◯毎回、読了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。
bukkyo.bukkyo2017@gmail.com
編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。
「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
なお内容的には、
①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、
②それについての従来の自分の考え、
③自分にとっての「新しさ」の理由、
を含んでいるのが望ましい。
また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。
《前回の授業コメントより》
※対話の創造性と内言
私が新たに発見した事実は、創造性を産み出す対話の根底には、内言があることである。例えば書きことばにおける考え直しのモメントである。考え直しを担う内言を大いに発動させることで創造的な考えを産みだすという考え方である。私は、複雑なことばの活動をする際に、一回自分の中で語り、内言を発動しているとは思わなかった。しかし、このことが創造的な考えを産みだし、「対話のことば」が持つ強力さを示している一つであることが新しく気づきとなった。
※対話の基礎の1つ―自己の想定と自己自身との区別
私が今回新しく発見した事実は「自己の想定が批判的に考察されると、自己そのものが批判されていると思っているうちは、対話は成り立たない」ということである。自己を責めるのではなくお互いの意見を共に考え理解しあう。そして安定した関係性の中で知性が動き始める。
自分の意見が批判されたとき相手のことをネガティブに捉えてしまうことが少なくないと思うがそう思っていることと対話の成立に関係があるとは思っていなかった。
相互に鏡となりコミュニケーションを安定させる。そして対話を成り立たせるには自己の想定と自己とを切り離し自分の思考を追いかける力が必要だと新しく気づいた。
※「第2の内なる声」、他者、内省
今回の講義においての新しい発見は、自己意識の中発せられる第二の内なる声と他者の声との関係性である。
自身はこれまで、第二の内なる声と他者の声は直接的に関連しているため、イコールの関係であると考えていた。しかし今回の講義を通して、他者の声がそのまま内なる声になるわけではなく、自分の中に取り込んでいくことで内なる声になっていく過程があるということに気づいた。
そして新たに、このような第二の内なる声を他者から取り込み、その声と対話することが内省へと繋がるのではないかと考えた。これが自身にとっての新しさの理由である。
※対話の持つ二重の言語的特徴
私は今回の講義を受けて「対話のことば」の中には二重の言語的特徴が見られ、内的対話や内省を通して可能になる対話がもたらす創造的な考えを支える言語は、書きことばとと同じ様に内言なのであるということを新しく知りました。
普段、私たちは無為に自己のなかで語り、それから書いているが、そこには思考における下書きがあってそうした書きことばの思考における下書きは内言であるということを知り、今まで考えたことがなかったので興味深く感じた。
加えて直接的交わりが、話しことばに特有な「表情・身ぶり・イントネーション」をはっきりと再起させ話の内容を理解しやすくすることはなんとなく理解できていたが、考え直しを担う内言を大いに発動させて、ときには予期しなかったような創造的な考えを産み出す特色があることを知り自分にとって新しい発見であると感じました。
※「考え直し」と感情
新しい考えというものは複数の人間の考えやその人の持つ意味が集まりそこから必要のない部分をそぎ落とし生まれるものであると考えていたが、今回の授業で対話の最中、もしくは終了後に起こる「考え直し」という自分自身との対話によって、本人の内側から構築されるのだとわかった。
ただ自分自身との対話の際には自分から切り離した視点で自身の衝動や想定のすべてを見ないといけないとあったが、どうしてもその時の感情や状況によってそれらの捉え方が変わってくるのではないかと思った。
※内的対話の役割
私が今回発見した新たな事実は、内的対話は対話の創造性の為にも必要であるということである。「衝動や想定」を相互に見るために必要な、本文に記されていた4つの事柄の条件を満たせば、対話の途中や終了後に対話の話題が内省されて、創造的な考え方が浮かんでくる。
私は内的対話に対して、それほど難しいものではないと以前まで考えていた。しかし私が考えていた以上に他者との対話の中で内的対話を行うのは難しいことだと今回改めて理解した。
内的対話は対話の創造性の為にも必要であるという新しい発見は、私の新たな学びとなった。これが発見した事実の新しさの理由である。
※質問
小タイトル【自己と他者とを自己の鏡とすること、等々】の(iv)の内容より、なぜ自己受容が可能になることが自己自身だけでなく相互の鏡に繋がるのか、少し難しく感じました。
〔自己の思考を内省する(ボームの言葉では「自己受容的」な)過程には、自分の思考の利点と弱点とを明らかにし、このときにこう考えるべきだったという反省が語られる。それを聴くと、他者が同じように、他者自身の内省を始める、ということは、対話において良く見られることでしょう。すでにそのことが相互の鏡なのです。相手の応答のなかに自己自身にとってのヒントがあることが、「相互の鏡」という比喩の出発点です。〕
第2の内なる声が他者から生み出され、それを無意識のうちに自分の内言として捉えているということでしょうか。
〔そういう場合もあると思いますが、もっと意識的なときもあるでしょう。つまり、他者の声の考察のなかで第2の内なる声が形成される場合もあるでしょう。〕
創造性を産み出す対話のことばは、相手から学ぶのか?
〔相互に学び合っていると考えられます。相手から学ぶとともに、相手も自分から学んでいる、というもう1つの側面を忘れてはなりません。〕
《講義メモ》
はじめに
今回の講義では、子どもと大人(保育者・教育者)との対話について述べることにしよう。第10〜12回の講義は対話に関する理論編に該当したが、これからの3回は応用編である。今回は保育や教育に深く関連する「子どもとの対話」である。もちろん、ここで言う対話とは、新しい考えや新しい語が産み出される創造的な対話のことである。
I 子どもの最初の対話
【人生で最初の子どもの対話―新しいことばの創造】
驚くべきことだが、創造的な考えを産み出す「対話」は幼児期に始まる。創造的な考えは内省と不可分の関係であるはずなのに、まだ内省とはほど遠い幼児が創造的な考えを表現することは、無意識的になされていると考えられる。また、幼児の場合の「対話」はけっして「ことば」によるだけではない。そこでは、ことばを助ける表情、身ぶり、さらには、絵画・製作、歌なども動員される〔それはしばしば総合的表現、総合的活動とも呼ばれる〕。だがそこに、「新しいことば」が創造されるとき、それは「創造的対話」と呼んでよいと思われる。5歳児のそのようなことば、「よけとび」を事例にして、この「対話」について考えてみよう。
【子どもの「造語」は大人との対等な関係を証明する】
「よけとび」(ツバメが木を素早くよけて飛ぶ様を示す)のような幼児の造語は、幼年期の子どものことばを収集し考察したチュコフスキーの言葉を借りれば、「模倣と創造の統一」(『2歳から5歳まで』)だと特徴づけることができる。つまり、《大人の語の模倣+子ども自身の創造》が、母語の無意識の習得過程を表している。大人が使用しない語を幼児が「発明」するのは、このような「統一」の故であり、子どもは大人がしゃべったことばを習得するばかりか、それを応用し改造さえするのである。
「よけとび」という5歳児の語と保育の経過について考察してみると、この造語は、保育者(大人)と子どもとが対等な関係の所産であることを示している。
保育者は、「よけとび」の語が生まれた日の保育を振り返って、次のように述べている。
《ツバメの飛びについてクラスの興味が集まってきた(公開保育の前の)ある日の設定保育。そこでは、それまでに子どもたちが見た様々な経験が混ざりあっていた。ツバメはエサに虫を取っているという話題について「虫の真似をして飛んだら虫が取れる」と言う子。それとかかわって、高く飛んでいるのは「うえ飛び」、地上すれすれに飛んでいるのは「すれすれ飛び」や「ぎりぎり飛び」、園庭の脇にある林のあいだで木をよけながら飛ぶのを「よけ飛び」だと言うのである。飛ぶ身ぶりを交えながら語られるこれらのことばは皆、生きている。「よけ飛び」は一人の女児が語ったことばだが、すぐにクラスの共有財産になった(保育者やクラスの子どもの誰かが言えば、何のことだかすぐにわかる)。》
【保育の過程において】
このエピソードを保育の過程において捉えると、概ね、以下のように言うことができるであろう。
「よけ飛び」「うえ飛び」「ぎりぎり飛び」などの子どもが創造したことばが示しているように、ここにあるのは小学校中学年や高学年に見られるような、教師が教えたことに反応する形で学習する「反応的な教育・学習」ではない。かといって、3歳未満児におけるような「自然発生的な教育・学習」でもない(保育者が導いているのだから)。ちょっと大まかにではあるが、「(保育者が)導く」「(子どもに)導かれる」がどのように行われているかを紹介しておこう。
(a)まず、子どもの興味・関心を考慮に入れて、ツバメをテーマにして、一定期間、このテーマを追求する(導く)。
(b)一定期間というのは子どもの興味の状態から判断する(導かれる)。
(c)子どもの興味の状態を見ながらであるが、実際のツバメを見る・見てきたことを話し合いと身ぶりで表現することを積み重ねる・ツバメに関連した歌をうたう・同様に絵本を読む・絵画製作を行う(導く)。
(d)と同時にそれらの活動の具体的な内容・保育の実際においては子どもの興味を大切にする(導かれる)。
このように、「導く」と「導かれる」はお互いに絡み合っているのである。
ここで筆者が念頭に置いているのは、ヴィゴツキーが示した就学前期〔=幼年期、3〜7歳〕の教授・学習の性格、「自然発生的=反応的」という教授・学習の様式である(ヴィゴツキー『「発達の最近接領域」の理論』2003)。ヴィゴツキーは、この時期の保育は「子どものしたいことが保育者のしたいことであり、保育者のしたいことが子どものしたいことである」と言う。これを保育の問題としてよりわかりやすく言いかえれば、保育は子どもを導くものだが、子ども(の興味)に導かれることなしには、導いたことにならないのである。
これを対話の問題として捉えた場合には、これらには、幼年期の子どもとしての独自性とともに、対話としての一般的性格も見られる。まず幼年期の対話は、ことばによる対話に限定されず、総合的あるいは混合主義的(ことば・身ぶり・描画・歌唱など)表現による対話である。そこに幼年期の対話としての独自性がある。
また、子どもを含む対話参加者たちの関係は「自然発生的=反応的」相互関係であり、これがバフチンの言う対話参加者たちの「意識の同権性」(対話参加者の対等・平等性)に一番近いものであろう。この点は、対話の一般的性格を表している。
さらに、独特な「造語」という形で、「新しいことばの創造」が見られるのであるから、この点から言えば、もっとも早い時期の創造的な対話とも呼びうるであろう。
II 子どもの対話が成立する時期
【対話への鋭敏性が増す2つの時期】
発生的に捉えた場合、上記のような「造語」が生まれたときこそ、最初の創造的対話の時期と呼ぶことができるであろう。そこにあるのは、チュコフスキー流に言えば「模倣と創造の統一」であり、より一般的に言えば、ヴィゴツキーが言うような、子どもと大人とのあいだにおける「自然発生的=反応的」な関係なのである。その関係は、参加者の対等性(同権性)、新しいものの(この場合には「造語」)誕生の条件ともなる。
言いかえると、「自然発生的=反応的」な関係が成立する時期こそ、創造的な対話が成り立ちやすい時期なのである。
そうした「自然発生的=反応的」な関係が成り立つのは、まず、3歳の危機と7歳の危機との間の時期であり、次いで、13歳の危機によって始まる自己意識の形成の時期であろう。
このような対話の敏感期をより一般的な教育・学習の様式の発達的変化のなかで捉えておこう。
【教育と学習の様式の発達的変化―3つのタイプの教育(学習)】
まず子どもの教育や学習の様式(形式)の面から捉えてみると、ヴィゴツキーの所説から、次のような3つのタイプを取り出すことができる。
〇「自然発生的タイプ」の教育・学習
乳幼児期のことばの発達は、自然発生的タイプの教育・学習の分かりやすい実例となっている。ヴィゴツキーの言葉を借りれば、子どもは「自分自身のプログラム」にもとづいて学習する。したがって、ことばの発達の内容や時期は子どもによって大きくは違わない。たとえば、1歳前には「指差し」が見られ、1歳頃に初語が発せられる。それは意味的には不安定で、いろいろな事物を表すのだが(「意味の般化」)、その初語は一語でありながら文の機能を持つ(「一語文」。場面に応じてその一語は異なる文を表す)。1歳代をかけて語彙の増加とともに意味の般化は終息し(「意味の分化」)、ことばも「二語文」、「三語文」となる。そうすると、1歳後半から2歳頃までのある時期にことばが爆発的に発せられるようになる。2歳代における文法発達を経て、3歳代には「話しことばの体系」が一応のところ獲得される。ちょうどその頃、独り言が始まる。こうしたことばの発達は概ね、どの子にもにも法則のように現れるのである。大人はこのようなことをプログラムとして持って、教育しているわけではない。ただ、子どもの欲求や必要を満たし喜びを味わいあうために、一緒に生活しているだけである。ことばのある生活のなかで、子どもが自分の力を駆使して、ことばを発達させている。つまり、自然発生的にことばを学習しているのである。
〇「反応的タイプ」の教育・学習
その対極にあるのが「反応的タイプ」の学習である。これは、「教師のプログラム」にもとづいてなされる教育に対して、それに「反応」するように行われる学習である。それは小学校中・高学年(7歳〜13歳の時期)に典型的に現れている。もちろん、その教育はたんなる知識の伝達ではなく、教えようとする課題・内容に対して子どもの興味を惹き起こそうとする。しかし、その課題・内容、それらを教える時期は、子どもではなく、教師が決めるのである。そうしなければ、文化を系統的に伝えることはできないからである。
〇それらの「中間的・移行的タイプ」である「自然発生的–反応的タイプ」の教育・学習
幼児後期と小学校低学年における(言いかえれば幼年期における)教育・学習は、これらの2つのタイプの中間にあり、「自然発生的=反応的タイプ」の学習と特徴づけることができる。いわば、“子どものしたいことが保育者のしたいことであり、保育者のしたいことが子どものしたいことである。たしかに保育者が子どもを導いているのだが、同時に、保育者は子どもに導かれている”、と考えられるようなタイプである。
〇大まかに、各様式が成り立つ発達の時期を示すと、次のようになる。
幼児前期(概ね1歳半〜3歳) 自然発生的タイプ
幼年期(概ね3歳〜7歳) 自然発生的=反応的タイプ
学齢期(概ね7歳〜13歳) 反応的タイプ
少年・少女期(概ね13歳〜17歳) 高度化した自然発生的タイプ、自然発生的=反応的タイプ、反応的タイプ
青年期(17歳〜) さらに高度化した自然発生的タイプ(卒業論文)、自然発生的=反応的タイプ(演習・ゼミ)、反応的タイプ(講義)
子ども・青年のなかで対話への鋭敏性が強まるのは、「自然発生的=反応的タイプ」が含まれている時期である。
III 教育・学習における「自然発生的=反応的」タイプの基礎にあるもの
「自然発生的=反応的」タイプの教育・学習の様式は、経験的には、上記の3つの時期に見られると考えてよいが、なぜその時期に、そうしたタイプが登場しうるのかを考察しておく必要があろう。
【自我の発達が持つ意味】
自我が飛躍的に発達する時期には子どもの主体性が増加する。そのときこそ、この学習の様式(「自然発生的=反応的」教育・学習、対話的学習)が意味を持つ。子どもが青年期を過ごすようになるまで自我が極めて大きな役割を果たすのは、少なくとも3回はある。
〇自我の芽生え期(3〜7歳)
まず自我の芽生えの時期である。その特徴は、確かに自我があるのに、子どもは自分に自我があることを知らない、という点にある。
まだ自己意識がまだ成立していないなかでの自我は、ユニークな働き方をする。1つは、「本当はしたいことなのに、大人がそれをしたらと言ったので、しない」というような独特な「反抗」である。したくないからしない、というのは普通の「反抗」である。したいけどしない、その理由は、大人がするように言ったから——というのは、事柄(行為の内容)が理由なのではなく、大人(の発言)が理由なのである。そういう意味で、独特な「反抗」である。
いま1つは、大人との独特な対話―おしゃべりではない・創造的な・対話―を可能にしていることであろう。創造的な対話がつくりだすものは、ここでは、《新しいことば》であり、《新しい考え》である。子どもが例えば《よけとび》のような語を発したとき、大人は聞いたことのないこの語はどういう意味なのだろうと考え、その子どもに尋ねる。こうして、創造的対話が始まる。《まだ落ちていない木の葉は跳び下りるのが怖いから》という《新しい考え》も同様であり、大人は《どうして怖いと思ったんだろうね?》と尋ねると、ここでも創造的対話が始まる。子どもの方はまだ自分のことば・考え・意味を自覚しているわけではないので、この対話は子どもからすれば、たまたまの自然発生したものである。大人の方の一種の「驚き」が対話の動機であり、大人の好奇心が対話へと導いているのである。
※もちろん、この時期の対話はけっして言語的なものに限られるわけではなく、身ぶり・表情、絵画・製作、歌唱といったこの時期に可能なあらゆる表現活動が対話に動員される。
※なお、ヴィゴツキーは7歳の危機をとりあげ、その特徴を、子どもの外面と内面の「対立性」にあるとした。独り言が大幅に内言へと成長する時期でもあり、じっくりと考察する価値のある時期なのだが、この時期の対話については、ヴィゴツキーは言及していないように思われる。
〇自我(自己意識)の形成期(13〜17歳)
ルソーが「人間の第2の誕生」と呼んだ時期である。もしそれを受けて述べるなら、人間的な意識の発生(3歳頃)を「人間の第1の誕生」とするなら、自己意識の発生と形成(13歳頃から)を「人間の第2の誕生」と呼ぶことができる。
自己意識とは、①文字通り自己を認識するということであるが、それにとどまらず、②自己との関係において他者を認識すること、③自己との関係において世界を認識すること、でもある。もし、自己との関係を意識しない、事柄それ自体を「即自的」な事柄と呼ぶなら、自己意識によってすべてが自己との関係において認識できるようになるわけで、その場合の事柄を「対自的」な事柄と言うことができるであろう。
ここにおいて、本格的な意味での対話が始まる。対話の相手と自分とは「対等」「同権」な存在であることが理解され(対話の外側で世俗的な優劣があろうとも)、そこから、お互いに内的対話をひきおこしあい、自己が「驚き」等によって深くなり、新しいことば・考え・意味を創り出すことができる。それはまだ、まったく自分にとっての「新しさ」に満足できるのである。
〇自我(自己意識)が進化する時期(18歳〜)
青年期において自己意識が進化すると、上記の自己意識の形成期に成立した対話が一層確かなものになるとともに、新しい特徴も生まれてくる。
新しい特徴の1つは、主観性と客観性との関係をどのように見るのか、という点にある。「対自」的な事柄とか他者とか世界というのは、「自分にとっての」事柄・他者・世界ということであり、とりあえずそれは主観的性格を帯びる。ところが、これがなければ、新しい客観的な発見・発明などはありえない。ヤモリの指の切断・再生という客観的(常識的)事実から「人間にもこれに類した再生能力」が秘められているのではないか、と想像することは、iPS細胞(万能細胞)発見以前には、夢想に等しかった。つまり、主観性に溢れていた。しかし、それが根本的な原動力の1つとなって、iPS細胞の発見と応用という創造的な客観的発見をうみだした。つまり、主観性こそ新しい創造的な客観的思考の産みの母なのである。この点が重要であろう。
新しい客観的な発見・発明はやがて常識となる。たとえば、ノーベル賞を受賞した血液型の発見者のことを知る人は少ないが、血液型については皆の常識となっている。これが、知の歴史的進歩というものであろう。その発端に主観的夢想が存在するというのは、なんとも興味深いことであり、自己意識の重要性を示唆している。
語の意味の発見に終わりがなく、対話そのものにも終わりがない(新しいものの発見はたえず続く)ように、対話が行われる年齢にも終わりがない――人が人生とはこんなものだ、と思わなければ。その意味では、ルソーが述べたように、いかに生きるかこそが重要なのである。
IV 大学生(青年期)のアクティブ・ラーニングについて
近年、大学教育における学習論について、アクティブ・ラーニングの用語をよく聞くようになった。この学習論のいくつかの要素のうち、「調べること」と「発表(表現)すること」が必須のようで、これが「アクティブ」の語の由来であるらしい。だが、内的な「アクテイブさ」はどのように考えられているのか。―ここでも、問題の焦点は、「考える」ということをどう教えるのかということに、個々人が「自分がいかに考えているかを考える」ことに、ある。
【講義と受講者の内省】
ある大学生の授業コメントより(3回生前期)―「この講義を聞いて、私は小さい頃に感じた違和感を思いだしました。それは、心の中でつぶやいた言葉は分かるのに、周りには聞こえてないし自分の耳でも聞こえないということです。いつから考え始めたのかは思い出せませんが、それは内言を意識し始めた時期と一致するのではないのかと思いました。そのときは不思議だなと思っていただけでしたが、講義を聞いてこれは重要な過程だったのだと感じました。」
どんな講義であったか? ピアジェが発見した事実(おおまかに言えば、子どもの独り言は3歳をピークにして7歳には半減する。)についてのピアジェの解釈とそれとは異なるヴィゴツキーの解釈。ピアジェは社会性の発達の故に独り言(自己中心的言語)が半減すると考えた。ヴィゴツキーはそれは表面的な考えであるとし、独り言から内言(聞こえない、自分のための言語)への成長が半減の基盤にある、と考えた。そうした内言は、ヴィゴツキーによれば、あらゆる心理活動を高次化する支えになる(これも大まかに言えば)、というものであった。
「小さい頃に感じた違和感」への解答を得たというこの学生とたまたまキャンパスで出会ったとき、「面白いコメントだった」と声をかけたボクに対して、「心の中のことばが聞こえない不思議さを感じたとき、心の中で大声を出してしゃべったけれど、やはり聞こえなかった」と彼女は付け加えてくれた。「違和感」は本物であった。そして、10年前後の時を経て、そのころの記憶がよみがえり、それへの解答がえられたと感じたこと―これは内面における知の能動性にほかならない。
【卒業論文と対話について】
コミュニケーションということばは、一般的には、双方向のことばのやりとりを意味し、たんなるおしゃべり会話・談話・対話などを含む形式的なことばである。このうち、「ことばのキャッチボール」という間違ってはいないが深みに欠ける規定からは捉えきれない、もっとも深いコミュニケーションは対話である。ここには、普通の会話・談話にはないものがある。その深みは、対話をしている相手も自分も、もともと予期さえしなかった「新しい第3の意味や考え」が対話のなかで双方に誕生する、という点にある。
教育実践のうえで、対話がもっとも典型的に意味を持つのは、おそらく、「自然発生的=反応的」な教育・学習が行われうる時期、つまり、幼児期と小学校低学年期〔3歳と7歳の危機の間にある時期〕、および、13歳の危機〔思春期〕以降の、自己意識が形成されていく、中〜高校生の時期と大学生の時期であろう〔その意味で、保育と卒論指導は似ている〕。
卒論の指導は、そのような対話が成り立つとき、以下のように飛躍を得る。
ある卒業生が書いた卒業論文の結論部分より―「私は、写真・映像についていろいろなことを知ることができてよかった。現代を生きる我々は、昔の写真・映像が一体どのようなものであったかを知らなかったからである。写真は、どんなによい写真でも時間が経てば記録となってしまうのは少し悲しかった。映像は写真から始まり、写真や映像を見るのは我々の目である。その目が見る範囲は視野である。私は、カメラが好きで、映像に興味があったのでこのような論文にしましたが、論文を書いていく内に視野について興味を抱いたのである。その視野は我々個人によって異なっており、そこに映る世界は人によって異なっている。物事を客観的に捉えることが大事とよく言われるが、我々の視野は個人によって異なるので、どうしても主観的になってしまうという矛盾が生じて面白い。そこから私は、地図上の世界は1つしかないが、我々の見る世界は地球上にいる者の数だけ世界は存在していると考えている。したがって、世界は自分を中心に回っているといっても過言ではないだろう。このような考えに至ることができた。」
この論文の結論は論文提出後に初めて眼にした。写真部にいたこの男子学生らしい結論であった。それにつながる助言を振り返ると、あるとすれば、ベラ・バラージュ『映画の理論』を紹介した程度であった〔そこには映画におけるカメラの《視点の転換》の意味が述べられている〕。私は彼に論文の結論部分について、「どのようにしてこのような考えに辿りついたのかね」と尋ねた。すると彼は母校の小学校に教育実習で行った折、「運動場はこんなにも小さかったのか」と驚いた、それがこの考えを抱く契機となった、と答えた。なるほどと納得しつつ、ボクはさらに質問を続けた。「なぜ小学生は運動場が大きく見えるんだろうね」。すると彼は即座に、小学生は視野が低いからではないか、と答えた。本当は空間認識の発達の全体に関わることではあるが〔たとえば地図を書けるなどによる相対化〕、直接的には彼のように捉えても間違いではないし、カメラ愛好家らしい考えであると思った〔まるで映画監督の小津安二郎のロー・アングルのように〕。この学生は自分でよく考えて結論を引き出した、と確信した。そして、これで良い、と思った。
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