〔2021/07/19〕第14回 社会的実践と個人―対話について⑤ 「治療と対話」

 〔2021/07/19〕第14回 社会的実践と個人―対話について⑤ 「治療と対話」


《お知らせ》


◯この科目の評価ですが、これまでに提出していただいた「授業コメント」をいわゆる「期末レポート」と見なして、評価いたします。したがって、学期末に追加でレポートを課すことはしません。

◯この講義に対する受講者によるアンケートは最終週にアクセスし、提出してください。


◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、

https://kyouikugenron2021.blogspot.com/

に掲載します。このブログを読むためには、タブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。

◯毎回、読了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。

 送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。

bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

 編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。

 「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。

 また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。

 なお内容的には、


①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、

②それについての従来の自分の考え、

③自分にとっての「新しさ」の理由、


 を含んでいるのが望ましい。

 また、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。


《前回の授業コメントより》

*幼児との創造的対話について

 私が今回発見した新たな事実は、子どもとの創造的な対話は「自然的=反応的」という相互関係のなかで生まれていくものであるということだ。これは、保育者が子どもを導いているのだが、同時に、保育者も子どもに導かれることで成り立つ。

 これまでの私は、創造的な対話をすること自体が子どもにとって難しいものであると考えていたため、保育者が教えることで反応を促さなけば生まれないものだと思っていた。

 しかし、創造的な対話は保育者に導かれてはいるが、それ自体を生み出すのは子ども自身であることを新しく学んだ。これを上手く生み出すには「導く」保育者と「導かれる」子どもの興味を一致させることが必要であり、一致した時に自然と相互関係が作られることで、対話が生まれることが分かった。

*「導く」と「導かれる」

 今回の講義においての新しい発見は、保育の過程の中で保育者は子どもに導かれることなしには、子どもを導いたことにはならないということである。

 私はこれまで保育者が子どもを導くことだけに注目していた。しかしそうではなくて、子どもの興味関心や大切にしている世界を共有し共に追求することによって導かれ、それを広げるように子どもと関わることが子どもを導くことになっているのである。

 そのような過程がなければ子どもを導いたことにはならないという、非常に重要な視点について気づかされた。そしてこれまで自分の中でぼんやりとしていた子どもを導くということに関して、以前よりもしっかりとイメージを持つことができるようになった。これが自身にとっての新しさの理由である。

*13歳の危機と自己意識

 13歳頃からの自己意識の発生と形成が「人間の第2の誕生」と言われることを、今回新たに学んだ。自己意識とは、文字通り自己を認識するということであるが、それにとどまらず、自己との関係において他者を認識すること、自己との関係において世界を認識すること、でもある。これらのことができるようになるのが13歳頃からである。

 私は以前まで、13歳頃からが自己意識の発生と形成において大事な時期であるということを、そこまで深く考えられていなかった。

 私は自我(自己意識)の形成期(13歳~17歳)の部分を読んで、13歳頃からの時期が人間において本当に大事な時期であるということに気付かされた。この学びが私にとっての新しさの理由である。

*対話への鋭敏な時期

 今回の講義においての新しい発見は「 子ども・青年のなかで対話への鋭敏性が強まるのは、「自然発生的=反応的タイプ」が含まれている時期である。」ということである。含まれている時期とは幼年期・少年少女期・青年期でありこの時期に創造的な対話が成り立ちやすくなる。そして新しいことばや考えが誕生し、導くものと導かれるものは対等関係であり固定されず絡み合っている。

 これまでは対話への鋭敏性が強まるのは幼年期のみだと考えていた。

 自我が芽生える幼年期に保育者と言葉だけでなく身ぶりなどの対話をし新しいものを得る。ここで保育者は自分と対等であると理解しているのは幼年期独特の思考ではないかと考えていたため、ほかの時期にも含まれているということを初めて知った。

*質問

 対話の動機は「驚き」と書かれていたがそれ以外もあるのでしょうか。

 〔子どもとの対話において、大人の側からの応答の動機のきわめて自然で有意義なものは「驚き」だと言えましょう。驚きというのは情動には違いないのですが、ちょっと他の情動とは異なっています。ヴィゴツキーの言うところによれば、「驚き」とは「理論的情動」であり、知と情がきわめて密接に結びついたものです。したがって、これにもとづけば、大人の側の対応は情動的であるとともに知的にもなるでしょう。そこに子どもとの対話に適したものがあると考えられます。〕

 幼児前期の子どもが発することばの意味に曖昧さがあることは確定されているのですか。もしそうとは限らないのであれば、例えば日本の子どもが1歳半~3歳までの間に英会話教室に通い始め、意味が分かった上で英語を発し始める事は「自然発生的=反応的タイプ」の様式が成り立ったと言えるのでしょうか。

 〔3歳未満児にとって外国語は外国語ではなく第2の母語ということになり、これはバリリンガルの問題に繋がっています。したがって、自然発生的=反応的ではなく、あくまでも「自然発生的」タイプの習得となるでしょう。〕


《講義メモ》


はじめに

 今回は、精神療法の実践において対話の意味を理解するために、フィンランドにおいて開発されている「オープンダイアローグ」のあらまし、それが、すでに述べてきたバフチンの対話主義、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」「内言」の考え方を基礎にもっていることを考察することにしよう。


I 精神疾患における「身体的原因」と「ことば」

【身体的原因が不明な精神疾患もある】

 以前の講義で述べたように、アルツハイマー病の場合にはアミロイドβの脳内蓄積、失語症の場合には大脳皮質のブローカ野、ウェルニッケ野などのダメージが、身体的原因であることが確かめられている。

 他方、そのような明確な身体的原因が不明である精神疾患は、統合失調症と鬱病であると言われる。しかも、1913年のヤスパース『精神病理学原論』、1934年のシュナイダー『臨床精神病理学序説』においても、この2つの疾患は原因が不明であると述べられいるが、今日でも、そうした状態は変わっていない(村井俊哉『統合失調症』岩波新書、2019年)

【統合失調症の場合】

 統合失調症の場合、ドーパミンという脳内物質の働き、うつ病の場合にはセロトニンという脳内物質の働きが関係している、ということは分かっているが、たとえば、統合失調症において、ドーパミンが増えていることが原因なのか、あるいは、足らないことが原因なのか、という点までは分かっていない(村井俊哉『統合失調症』)。

 診断は患者の言葉と態度からなされる。たとえば、患者の言葉と態度から、「幻覚」「妄想」の存在を察知するのである。

【薬物による治療と、ことばを通した治療】

 村井の著作には、統合失調症の治療について、わが国における平均的なものが描かれているように思われる。すなわち、一方では、薬物による治療(ドーパミンの投与)であり、他方では、ことばを通した治療である。―たとえば、次のような具合である。「患者さんの話をよく聴き、理解を言葉や態度で示し、ねぎらいや励ましの言葉を添えます。このことを精神科では『傾聴』と呼び、基本レベルの精神療法において最も大切にします。傾聴を続けながら、混乱状態にある患者さんの言葉を少しずつ整理していきます。」(村井俊哉『統合失調症』前掲)

 次章で述べる「オープンダイアローグ」は、このような、ことばを通した治療を、さらに発展させ、理論化したものだと言うことができるであろう。


II オープン・ダイアローグの考え方

【精神療法における「オープン」の意味】

 まず精神療法の領域における考え方としてオープンダイアローグとはどのようなものかを捉えようとするとき、その「オープン」の意味を理解しておくことが必要である。

 斎藤環の紹介するところによれば(斎藤環著・訳『オープンダイアローグとは何か』医学書院、2015)、「オープン」の意味は次のように浮かび上がってくる。

 ①精神科医やカウンセラーと患者(クライエント)との1対1の関係(これはモノローグの関係と呼ばれている)からの解放。患者本人、家族、医療チームのミーティングによる対話。発症初期から急性期を脱するまでの期間、そのようなミーティングが毎日積み重ねられる。これがオープンダイアローグのもっとも分かりやすい特徴であろう。

 ②「専門家が指示し患者が従う」という関係からの解放。しかし専門性が否定されるわけではなく、医療チームによるリフレクティング〔展開されてきた対話の内容をどう捉えるかという話し合い〕が患者本人や家族の前でなされる。医療チームだけでいかなる決定もせず、ミーティングを通して次にすることが決められる。

 ③服薬と入院からの解放。ミーティングにおける対話で良い結果を得られないときにのみ、服薬や入院が行われる(良い結果が得られないときの「保険」)。

 ④傾聴と応答のなかでの自由な発話。そのなかで「対話を支える振る舞い」「感情の分かち合い」「コミュニティーの形成」そして「新たな共有言語〔意味〕」の創造が実現される(セイックラ、トリムブル、p.149)。

 これらの特徴が示唆する精神療法の技法は、オープンダイアローグ以前の技法から引き継いだものでもある。すなわち、カウンセラー・精神科医と当事者との1対1の関係のなかでの治療ではなく、当事者とその家族という「集団」が主体となる「家族療法」、当事者の語る物語を重視しつつその意味の変容を促す「ナラティヴ・アプローチ」、常時ではないが当事者やその家族の前で行われる専門家同士の考察的討論としての「リフレクティング」などである。


III オープン・ダイアローグの基礎にあるバフチンの考え方

【バフチンからの示唆を表すエピソード】

 オープンダイアローグを理解するにはバフチンの理解がいる。とくに、バフチンがドストエフスキーの小説と芸術論とを分析しようとした観点、すなわち自己意識と対話との関係を理解することが必要である。このオープンダイアローグを唱えはじめたセイックラは自己のバフチンへの関心を示すような逸話を紹介している。斎藤環はセイックラから直接に聞いた話として次のように書いている(斎藤環著・訳『オープンダイアローグとは何か』医学書院、2015、p.29)。

 「オープンダイアローグのアイディアに煮詰まっていたとき、奥さんから〔学生時代に読んだ—神谷〕「バフチンのことは忘れたの?」と指摘されて、ああそうだったと再読し、あらめてオープンダイアローグとの親和性に気付かされた......。」

【バフチンから摂取したもの】

 セイックラらは(上記『オープンダイアローグとは何か』、pp.93-99)「オープンダイアローグの詩学the Poetics of Open dialogue」およびその内容としての「不確実性への耐性Tolerance of uncertainty」「対話主義Dialogism」「ポリフォニーPolyphony」という諸概念を取り上げ、オープンダイアローグを解説している。これらはバフチンに由来する諸概念、バフチンがドストエフスキーの作品を考察して明るみに出した諸概念である。これについては、以前に述べたが、バフチンの『ドストエフスキーの創作の問題』(1929年)と『ドストエフスキーの詩学の問題』(1963年)、前者を後者に改編することを意図した論文「ドストエフスキーに関する著作の改編に寄せて」(1961年)が重要な文献になる。

 ところで、セイックラらは、本来は「美学」を意味する「詩学」という語を、「対面して診察をおこなう場面での言葉づかいやコミュニケーションの実践The term “poetics” refers to the language and communication practices in face-to-face encounters, p.404」という意味で用いている。上記の3つの主要な内容―「不確実性への耐性Tolerance of uncertainty」「対話主義Dialogism」「ポリフォニーPolyphony」―は、すべてバフチンのドストフスキー論に用いられた概念である(ただし「不確実性への耐性」は、バフチンにおいては「対話の非完結性незавершимостъ」(Бахтин, 1961/1979, с.309)に該当するであろう)。

 バフチンは「私の著作〔1929年の『ドストエフスキーの創作の問題』〕のあと(だが、この本とは無関係に)、ポリフォニー・対話・非完結性の思想が広範に発達してきた」と述べている(1961/1979, с.309)。このように、上記の3つの点は、バフチンのドストエフスキー論において相互に繋がり合っている。それと同時に、オープンダイアローグにおいても、同じように、3つの主要な点は相互に繋がり合っている。

 この主要な3つの点はすでに第11〜12回の講義で述べているので、それぞれの要点のみを以下に示すことにしよう。

【主要な原則】

 ①「不確実性への耐性」とは、暫定的な結論はあっても、最終的な結論は求めない、という意味である。これは、デヴィッド・ボームの所論にもとづいて言えば、「意味の共有」は求め合うが、「意見の共有」は求め合わない、ということと同じであろう。バフチンは「対話の非完結性」という概念で、このことを表している。すなわち、対話には「終わり」がないということ、つまり、簡単に結論に達することはないというものである。ここから、バフチンの対話の思想は、ポストモダンあるいは相対主義的である、という解釈がなされる傾向にあるようだが、バフチン自身は、相対主義(真理は人の数だけある)と教条主義(真理は1つしかない)の双方を批判し、それらをともに乗り越えようとしている。たとえば、「相対主義релятивизм も教条主義も、あらゆる口論、あらゆる真の対話を排除してしまう、——この対話を不必要にするか(相対主義)、不可能にするか(教条主義)、によって」(Бахтин,М.М., 1963/2002, глава II , с.81 // 1995, p.142)、と。相対主義にも教条主義にも陥ることなく、対話が永続するというとき、人間の認識とはどのようなものと理解されるのか。人間は暫定的に足場を堅めて暫定的な真理を手にすることはできるが、やがて、それだけでは不十分になり、より全面的な真理に向かおうとする。暫定的な真理は間違っていないが部分的であるからこそ、人間はより豊かな認識のために全面的な真理を求めようとするのである。バフチンが「対話の非完結性」に込めた認識論とは、たんなる相対主義の認識でも、相対主義から絶対主義化への認識の運動でもなく、部分的真理から全体的真理へと永遠に近づいていく認識の運動を表しているのではないだろうか。

 ②「対話主義」は、対話者相互の外的対話が各人の内的対話を引き起こし、その内的対話がより発展した外的対話の動機になるという、外的対話と内的対話との循環的関係を特徴とし、それを自己意識に焦点づければ、「内的な第2の声」(ワロンの言う「第2の自我」)が「現実の他者の声の代替物であり、特殊な代用品замена, специфический суррогат реального чужого голоса」(Бахтин,М.М., 1963/2002,с.283 // 1995,p.533)として現れている。こうした対話構造がドストエフスキーに関するバフチンの所説から引き出されてくる。

 この問題は、オープンダイアローグにおいては、つぎのような事例が示唆に富んでいる。それは家庭内暴力をめぐるセイックラらの取り組みの事例である。―「予後良好な事例の対話をみればわかるように、患者の内的な対話は、治療チームのリフレクティヴな会話に積極的に参加しようとしています。彼は彼の考えを表現するための言葉を生み出すべく、ずっと(声に出さずに)発言をつづけているのです」。「いまだ語り得ない体験へと歩を進めていくうえで、十分な安全が保証されるべきであることは想像に難くありません。そうした未知の体験はできあいの過去のどこにもありませんが、対話を通じて体験を再構築し、体験を生き直すことが可能になるのです。」(齋藤環著・訳『オープンダイアローグとは何か』医学書院、2015年、p.143, 原典p.272)

 ③「ポリフォニー」とは、もともと、音楽用語であり、複数の旋律がすべて主旋律として奏でられる楽曲を意味している。小説の場合(ポリフォニー小説)では、ドストエフスキーのように、どの1つの声(作者の声も含む)も、他の声を圧倒したり、他の声を自分に従わせたりすることがない。つまり、対話(ダイアローグ)になっているのであり、そこには、特別な1つの声(モノローグ)はない。このようなポリフォニーの音楽や小説と同じように、バフチンが強調したのは、現実の対話(ダイアローグ)はポリフォニーのように多声的であるべきで、モノローグ的(独裁的)であってはならない、ということであろう。

 ※それは、なぜかと言えば、ポリフォニー(ある意味では多様性)がなくなれば、特別な声が圧倒し、対話が成立しなくなり、そこからは創造性が生まれてこないからである。ところで、精神疾患の治療の面でも、この創造性は力を発揮するのではないかと思われる。たとえば、統合失調症の症状を例にとれば、その当事者の「幻覚」「妄想」の意味が、対話を通して、当事者、家族、医療チームのなかで「共有」されるなら、皆の癒やしに繋がり、治療によい効果をもたらすであろう。


IV オープンダイアローグと感情、さらに、人間観

【感情】

 精神療法においてまず必要なのは当事者や家族の感情をほぐしていくことであろう。それは、その人たちが対話を自由に受け入れていくためである。その過程は「1回性」のものであり、他に代え難い体験であり、治療チームは対話の外側から観察するのではなく、対話の内側に身をおく必要がある。それは、次のことのためである。

 すなわち、治療チームについて、当事者や家族が治療者と見なすのではなく、対等な存在と見なすこと、わかりやすく言えば、仲間と見なすことが決定的な意味をもつ。その入口には感情のほぐれがある。そうしてこそ、上述したような、治療チーム内のリフレクティングにおける対話が当事者の内的対話をひき起こす、ということに繋がるのである。

【「その人」を捉える】

 上記のように、その当事者を捉えるということは、多かれ少なかれ、その人との「感情の共有体験」において、その人を捉えることが求められる。いわゆる「共感的理解」である。セイックラたちは、「身体の記憶」「身体を持つ」「1回性の出来事」などと様々な表現を用いますが、これらはすべて「その人(具体的な個人)」を捉えるための概念なのです。―「『身体を持つ』とは、みずからの肉体や背景的な影響(たとえば、階層、人種、ジェンダー、文化、地政学、歴史など)の特性によって形づくられ、同時に制約されている存在であること」を意味している(齋藤環著・訳、前掲書、p.161、原書p.466)。

 たとえば、精神病患者の幻覚には、「トラウマ体験が隠喩的な形で取り込まれている」(齋藤環著・訳、前掲書、p.167、原書p,468)。その患者に特有なこのことを、当事者も、家族も、治療チームも理解しえたとき、対話は一段と前に進むと考えてよいであろう。それは、まさしくその人の幻覚の起源であり、それを理解するにはほぐされた感情のなかでの「知の働き」が必要である。

【ポスト・モダンの人間観とモダンの人間観】

 対話主義はコミュニケーションの形式であるにとどまらず認識論的立場でもある。ここから、認識における一種の相対主義が生まれることになる。セイックラらはバフチンをポスト・モダンの思想家と評価しているようだが、認識論における対話主義のゆえに、ポスト・モダニズムに真理を独占させるのではなく、モダニズム(modernist scientific discourse)にも有益性を認めている。そのなかに、ヴィゴツキーや彼と共鳴しあう発達心理学的諸研究が位置づけられている。

 たしかに、精神療法の見地から、バフチンをポスト・モダニズムのなかに位置づけることは理解できるが、バフチンの思想そのものをそのように捉えて良いかどうかは慎重な検討が要るであろう。たとえば、ポスト・モダニズムと親和性の高いと考えられる相対主義について、バフチン自身は次のように対話を不必要にすると批判的に考えているからである。「相対主義релятивизм も教条主義も、あらゆる口論、あらゆる真の対話を排除してしまう、——この対話を不必要にするか(相対主義)、不可能にするか(教条主義)、によって」(Бахтин, М. М., 1963/2002, глава II , с.81 // 1995, p.142)。

 人間の現象的記述(ポスト・モダン)と人間の因果的究明(モダン)を、実は、ヴィゴツキーは統合的に捉えようとしたのだが、それについては、また別の機会に論じることにしよう。


V ヴィゴツキーの考え方の摂取

【対話と本質的に呼応するヴィゴツキーの考え方】

 ヴィゴツキーの発達心理学的な考え方はバフチンの対話主義と、多くの点で響き合っている。もっとも根本的な原理として、ヴィゴツキーは言語・思考・精神の起源を、個人内過程に内化していく「間個人」的出来事である(language, thought, and mind originate as interpersonal events that become internalized  individual processes over the course of development.p.469)と見なした。

 それについて多少解説しておこう。「間個人」的出来事をについては、以前のヴィゴツキーの人間発達理論に関する講義において、人間の現実の関係が後に人間の心理的関係になること、たとえば、現実の対話が内的対話になる、口論が思考になる、等々と、ヴィゴツキーは心理的なものの起源について述べていた。このことを思い出してほしい。セイックラたちは、こうした事柄に着目して、バフチンの対話主義とヴィゴツキーとは響き合っている、と考えたのであった。

 ヴィゴツキーの考え方のうちで、セイックラたちがオープンダイアローグに必要なものとして特に取り上げたのは、発達の最近接領域の考え方と、内言の考え方であった。

【「発達の最近接領域」の創造としてのリフレクティング】

 セイックラらは、オープンダイアローグの一部分となっている「リフレクティング」(当事者とその家族の眼前で行われる専門家同士の話し合い)をヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」の創造と比している。

 ところで「発達の最近接領域」とは、もともとは、ヴィゴツキーが知的教育のプロセスのなかにいる子どもの知的発達の動態を表す概念である。それを要約すれば、子どもはたえず、二重の知的発達水準を持っている。一つの水準は、子どもが独力で課題を解決しうる水準。もう一つの水準は、独力では解決できないが、先生がヒントを与えたり、年上の子どもと一緒にすれば課題解決できる、という協同的水準である。この二つの水準の隔たりのことを、ヴィゴツキーは「発達の最近接領域」と呼んだのである。子どもの持つ「発達の最近接領域」のなかに位置する課題を提供することこそ教育的である。協同的水準があってこそ、独力の水準が向上するのである。

 セイックラらは、オープンダイアローグにおける「リフレクティング」は、発達の最近接領域の創造に類似している、と考えたのであろう。少なくとも、リフレクティングによってダイアローグの水準が向上することを期待したのである。

【内言】

 こうして、ヴィゴツキーの解明した内言は、オープンダイアローグにおいては、何よりもまず行為や感情状態をコントロールする強力な道具となり、治療的ミーティングにおける感情の流れのサポートを理解することに繋がっている。

 ただ、セイックラたちの内言に対する位置づけ方で、やや物足りない点は、内言が情動との関係だけに限定的に捉えられていることである。どうしても、精神的な治療が前面に現れると、それはしかたがないようにも思われるが、対話が必然的に含み入れる「思惟から語への」また「内言から外言への」運動が明瞭に位置づけられていないことが、残念である。

 ただし、その兆しは、確かにある。たとえば、―「確実に言えることは、つらい感情を危険物扱いするのではなく、その場の自由な感情の流れのなかに解放したときにこそ、こわばって縮こまっていたモノローグがダイアローグへと変化を遂げる、ということです」(齋藤環著・訳、前掲書、pp.166-167、原書p.468)。私自身は、このように感情が「その場の自由な感情の流れのなかに解放」されたとき、まず始動するのは「知の働き」ではないかと思われる。

 こうして、新しい言語の共有、感情体験の共有、感情の自由な流れ、そのときに生じてくる知の働き―このような一連の体験を支えているのが「内言」なのである。


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